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水森由菜

Yuuna Mizumori

水森由菜は、2022年9月に女子プロレス団体・我闘雲舞を退団しフリーとなった女子プロレスーであるとともに、アイドルとしてライブ活動も並行して行っている。なぜ彼女に登場願ったかというのは、COLOR’Sがcolor’sとして旗揚げして以来レギュラー参戦してきた経緯があり、2022年2月のCOLOR’S旗揚げ戦でも、欠場した網倉理奈の代役を果たしていたから。

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Yuuna Mizumori

INTERVIEW PLUS

幼少期は「男の子かと思うぐらい活発で、いつも外で暗くなるまで遊んでいて、その時からアニメは大好きでした」。一つ上の姉とよく遊んでいたという。アニメを見ていた時に『YAWARAちゃん』が放映されていて、「なんでも影響されやすい子だったので。闘う女の子、めっちゃかっこいいなと思って。私も小学校に上がったら、すぐ柔道に入るんだと思って、小学2年生の頃に柔道始めました」。彼女が通っていた熊本の小学校では、地元の柔道家がボランティアで教えてくれる柔道部があったという。女子3人、男子10人ぐらいの部員がいて、「一本取るのは、難しいんですけど、たまにスパンと大外刈りとか決まったりすると、めっちゃ気持ちよくて。でもそれ以外が本当に苦痛。やめたい、やめたいと思いながら3年間はやってました」。「熊本ってアニメは日曜の朝ぐらいしかやっていなくて。途中からアニマックス(アニメ専門チャンネル)で、死ぬほど見まくって。『北斗の拳』『聖闘士星矢』、といった昭和の古い男子系の闘うアニメを見ることが多かったです。闘うの苦手って思いながら、戦ってるシーンを見るのが大好きで。矛盾はしてたんですけど、熱いものに惹かれてましたね」。柔道をやっていると、体も大きくなっていき、クラスの男子から“怪物”扱いされ、からかわれるようになった。そんな時、「男勝りだけど乙女みたいな部分が出てきちゃって。自分のあり余った力で、人を傷つけちゃうんじゃないかと。友達と柔道ごっこをしてたんですけど。自分、闘うスポーツは合ってないんじゃないか、友達に怖がられてたりして。私って怖いやつなんだと思って。それもあって、柔道をやめたんです」。その後、姉もやっていたというバドミントンを始める。スポーツ三昧の生活とアニメにハマった小・中学生だった。
アニメや声優への憧れはあったものの、固まった夢はない状態で、高校進学を迎える。「頭のいい学校に行って勉強しておけば、いざ何かやりたいとなった時に有利になるんじゃないか」と中学3年の後半は塾に通いながら受験勉強に励む。「八代市の中で進学校の八代高校というのがあるんですが、受験することに決めまして。市内で行くなら、頭がよくて、イメージが良くて。みんなが八高に行きなさいというのがあるんです。ステータスじゃないですけど」。そして、見事、合格。

YAWARAちゃんに憧れて柔道を始めるも

交通事故が進路を変えさせた

「2年から3年に上がる時に、理系か文系かの選択があって自分は理系を選びました。その時から絵を描くのが好きだったので、グラフィックだったら理系なのかなと思って。化学とか物理とか苦手で、いつも赤点だったんですけど。理系で勉強してました」。受験シーズンのなると、周囲もピリピリした空気になる中、どの大学を受けるのか、決めきれずにいたという。
ある日、自転車通学の最中、遅刻しそうになり、急いでいたところ、向こうから走ってくる車と正面衝突、宙に舞った。幸いにも、落ちたところが耕したばかりの地面が柔らかい田んぼ。奇跡的に無傷だったという。反対に車の方はフロントガラスがぐちゃぐちゃだったという。「死ぬかなと思った時に、人間って、本当いつ死ぬかわからないんだと思って。それなら、私もやりたいことをやっちゃおうと踏ん切りがついて。それで、迷っているなら、昔からやりたいと思って自分の奥底にあった声優の道を目指そうと」。決意をして、親に話すと「応援するよ」と背中を押してくれた。熊本には、声優の専門学校はなく、福岡にあるぐらい。「福岡に出るなら東京に出ても変わらない。少しでもチャンスを広げたいな」というのもあって、卒業後1年間、地元で働いて、お金を貯め、東京の専門学校(アミューズメントメディア総合学院)に進学した。
東京に出てくると一人暮らし。「よくホームシックになるとか聞くじゃないですか。でも私の場合は、寂しいとかなくて。好きな時間にご飯が食べれて、好きな時間にお風呂に入れるのが、すごい楽しくて。実家だと、早くお風呂に入りなさいと言われる。あれが大嫌いでした。天邪鬼だから、それを言われると、今行こうと思ってたのに、後にしてやろうと(笑)。いつでも入れる、一人暮らしの楽しさを実感しました。特に遊びに行ったりはなかったんですけど。一番大変だったのは、朝の通勤電車。本当に大変でしたね。東京の厳しさを実感しました。食事は、コンビニ弁当とかマックとか、ジャンキーな生活をしていて、卒業した以降からすごいめっちゃ太って。今の方が一番体重が重いんですけど(笑)」

2年間で学んだこと

学校では、朗読やナレーション、アフレコ、感情表現の仕方などを学んだが、年に何度か文化祭のような形で公演活動も行っていた。演者だけでなく、スタッフとしての客対応や、照明や音響などの舞台演出なども、みんなで分担した。また、年に何本かインターンシップという形で、アニメ声優の端役、人気声優のラジオ番組のアシスタントなどの仕事依頼が学校に来ていた。しかし、そこに選ばれるのは、ほんの一部の人。ずっと、その座を勝ち取りたいと思ってはいたが、なかなか結果には結びつかなかった。「公演では、誰か一人がミスすると、連帯責任で、昼夜のクラス合わせて300人ぐらい、今から全員呼んでこいと言う理不尽な先生がいて。そういう理不尽さを学んだというのが大きいですね。今、思うとわざと言ってくださってたんじゃないかと思うんですが、当時は、何なんだあいつ!、でも言えないし、怖いし。その学校を乗り越えたのは、社会に出て自信になりましたね。なんとか結果を残したいと、公演では、大変だから誰もやりたがらない舞台監督をやって、先生の目につくようにしたり、できることはやったんですが」。何か形にしたいという野心は、人一倍あったという。学校の卒業生には多くの声優がいるが、日本舞踊の家元をやっている先輩が、浅草公会堂での公演で、この学校の生徒のための枠を用意してくれていた。その時は、50人ぐらいの生徒がステージに上がり、ダンスを披露。「私もダンス好きだったので、出たいと思って。その時は座頭市の音楽を使ったダンス。日本舞踊は足腰が大事。座頭市をやってる中では、結構尊敬されるぐらい形が綺麗だねと言ってくださって。体で表現するのって、好きだし合ってるんだと実感したというか。人に見られるの気持ちいい。私を見て欲しいという気持ちがあって。どうやったら見てもらえるんだろうと考えて、キレを出したり、緩急つけたり、練習しましたね」
そして、卒業を迎える。声優事務所がオーディションを行い、合格した人は特待生として、レッスンやワークショップに通うことができる。専門学校を卒業して、声優事務所に所属できても、すぐに仕事があるわけでなく、事務所のレッスンにお金を払って通う、というは標準的なコース。「色々受けた中で、ラムズという野川さくらさんがトップとしてやってたところがあって、森嶋秀太さんが、今の響というブシロードさんがやられている事務所にいる。少しでもチャンスがあるのかなと思って、ラムズを選びました。そんなに大きな事務所ではなかったんですが、それでも、行ったことに後悔はしてないです。そこでレッスンを受けて、預かりクラスまでは、1年ちょいで上がったんですが。そこから、これからの活動というか進路について悩んで、このままここにいるか、新しいところを探すかと考えるようになって。環境を変えようと思って。お世話になったラムズの養成所を2年ぐらいでやめたんです」

「水森由菜 with つるぴかりん」としてアイドル活動継続中(写真提供=水森由菜)

アイドル活動が始まった

事務所を辞めても、仕事があるわけでもなく、何かしなければいけないと模索していた中で、ライブ活動を始めることになった。「歌も歌うし、MCで喋ることもあるし。アイドル活動までではなかったんですが、人に見られることは勉強になるなと思って。30分のバンドのアーティストライブに、初心者の自分がソロで歌ったんです。ライブハウスで。4、5組出るような。アニソンライブで、もとからある曲を歌いました。知り合いを15人ぐらいお客さんを呼んで」。しかし、初体験のライブは大失敗に終わる。「それが酷すぎて。慣れていないから、途中、歌詞を間違えてもリカバーできないし。MCも何を言ってるかわからない。とにかく自分のことをコントロールできない30分間にしてしまった。すごい恥ずかしい、二度とやりたくないなと一瞬思ったんですけど。こんな悔しいままじゃ終われないと思い、そこから音楽活動をやり始めました。それで、ネットで募集していたアイドルグループのオーディションに行きました。最終的に13人まで増えたLottin(ロッティン)というグループに入ったんです(2012年8月)。そこから本格的に音楽の活動をさせていただきまして。演技やってる、モデルやってる、声優やってるとか、いろんなジャンルの子が集まったアイドル。BLITZとかの大きなライブとかにも行ったんですけど、プロデューサーの方にも色々問題があって騙されたみたいなところがありまして。メジャーデビューの直前でなくなってしまって解散になっちゃいました。自分は1年ぐらいで解散の前に脱退しました(2013年7月)」。
その活動期間中の、横浜のライブハウスのイベントで、桜塚やっくんが出演していたことがあった。その時、桜坂やっくんと仲が良かったのが、今の事務所の社長。その縁で、Lottinをやめた後、その事務所に所属することになる。そして、水森由菜withつるぴかりんの活動が始まった。そこから、「芸歴ができたと言うか。きちんとオリジナルの楽曲もできて。CDも全国デビューさせてもらったり、カラオケにも入ったりとか。それもライブ活動してなかったら会わなかったし、今こうして活動できてなかったと思うので、全部が無駄ではなかった。あの時、失敗したことも、アイドルグループで騙されたとしても、結果オーライだったのかと感じます」
トレードマークといってもよい『トロピカルヤッホー』というキャッチフレーズは、このLottinのアイドル活動の時に生まれたもの。「昔から、人の笑顔を見るのが好きで、人を明るくさせたいなというのがあって、トロピカルって明るくなりませんか?明るくなれる挨拶をしたいなと思ってやり始めました。最初は浸透しなかったんですが、今はやめ時がない(笑)」

おにぎりプロレスとの出会い

アイドル活動中の2017年、偶然にプロレスを目にすることになる。「それまでプロレスは見たこともなくて、ざっくり怖いイメージしかなくて。三軒茶屋祭という野外のアイドル・イベントがあった時。水森由菜withつるぴかりんの前の出番がおにぎりプロレス(アーサ米夏&アサッテ海苔香の我闘雲舞アイドルユニット)さんで。連番だから袖に控えるときに見れるじゃないですか。おにプロさんは、アイドルにしては珍しく被り物をしていた二人組で、曲中に、スクワットをセコンドと言われるお客さんとやったり。地下アイドルは、面白い個性的な人はいっぱいいたんです。オタクの背中を列にして、背中の上を裸足で歩いてステージに戻るとか。その中でも面白いアイドルだなと思いました。一番楽しかったのが、最後の曲で、ロマモーっていうハロプロさんの有名な曲(『ロマンティック 浮かれモード』)があるんですが、カバー曲の間奏中に場外乱闘をやり始めるんです。椅子に相手をぶつけるとか、終いには、ダブルアームとかボディプレスとか技を繰り出したり、すごい、めちゃくちゃ面白いなと思って。私も、自虐系アイドルとして、体がでかい、太いというので、自分自身をいじる曲を歌っていたので、よくお客さんからもプロレスラーみたいだね、体大きいし、プロレスをやってみたらとか、突っ込まれたこともあったんです。プロレスってそれぐらいしか絡みがなかったので、初めてプロレスを見て、ワクワクしたいうか面白いなと感じました。チラシを配りに行ったお客さんが、たまたま、おにプロさんのファンで、興味あるんですと話したら、紹介してあげるよ、来なよと言ってくれたことから、トントン拍子に話が進んだんです」
初めてプロレスに触れて、興味をもった時、「我闘雲舞の動画も見たんですけど、世界観が強い団体だなと感じました。みんな可愛いカラフルなコスチュームを着ていて、マットの上で試合していて。我闘雲舞って、多分なんですけど、上からどんどん落とす技とか、そんなにやらないんですよ。シンプルな攻防というか。体も小さいですし。私はこれから入ったので、怖いというイメージがなくてキラキラしていた。失礼かもしれないですけど、これなら私にもできるかもと思ったんです。顔とかガンガンやったりしない。初めて見た団体が我闘雲舞だったから、すんなりこの世界に入れたんだと思います」

※我闘雲舞は、2012年にさくらえみが立ち上げた団体。市ヶ谷チョコレート広場をベースに活動。リングを使わないマット・プロレスを展開すると同時に定期的にリング使用の大会も開催。「ガトームーブ」「おにぎりプロレス」といったアイドルユニット活動も行っていた。

プロレスラー・水森由菜の誕生

アイドルイベントで我闘雲舞のプロレスに出会い、ライブ活動の傍、プロレスの練習に通い始めた。「マット運動の動きは、柔道と同じだなと感じていて。最初、筋がいいねと言われてたんですけど。受け身とか、表現とか、ドロップキックとか、難しいな。体が大きいから、タックルの練習はたくさんしていたんですが、受け身はしっかりできるようにならないといけないので。とにかく、受け身の練習を死ぬほどしました。当たり前なんですけど」。そして、デビューが決まったのだが、練習中に左腕を骨折してしまい、デビューは延期になってしまった。「今振り返ると、私はなんてプロレスを舐めていたんだろうという気持ちです。デビューは決まったんですが、ライブ活動が忙しすぎて、受け身の練習もあまりできてなかったんです。自分の中で、プロレス、本格的にやるのかなあと、自信がなかった、踏ん切りがついてなかった、覚悟ができていない時期で。中途半端な気持ちで練習してたから、怪我しちゃったのかなと思います。箱馬になって、前後にジャンプして飛び越えるシンプルな動き。それで躓いて、手を置いて、見事に折れちゃいました。自分の中途半端な気持ちで、デビューが決まったのに、デビューできなくなって団体に迷惑かけてしまったという気持ちが強かった。手術してボルトを入れて、使えるようになるまで3、4カ月かかりました。利き手じゃない左手だったので、まだ良かったんですが。最初は、右手だけで練習して、少しずつ、前受け身、後受け身できるようになって。デビュー前には、両手使って倒立とかで鍛えて。今では怪我して良かったと思ってます。覚悟ができたので。怪我してから、“デビューできるのかな”という気持ちから“デビューしたい”に変わったんです。逆に、時間が空いて良かったんだと思います」
病院で、我闘雲舞の試合映像を見て、それをきっかけにwebで女子プロレスの試合をたくさん見たという。そこで気になった選手は「アニキ(水波綾)。当時から、サングラスかけてナルシストスタイルで面白い。面白いのに熱い。憧れを抱きましたね。みんなキラキラしてバチバチして。大畠美咲さんも、負けん気の強さ、これが女子プロレスだという感じ。幼少期から、闘うのが苦手だったので、そういうのを出すの苦手だから、かっこいいなと。自分にないものを見てカッコいいなと思いました。今でも憧れてますね」
デビュー戦の相手は、師匠でもあるさくらえみ(2018年2月28日)。「体温が暑くて、キツくて、動くのって苦しいし、声出すもきつい。体が重くて動かない。さくらさんのプレスが全部が痛かったです。とにかく、今自分が持っているものを最大ぶつけようと思っていました。映像を見返しても、拙いし、声の出し方も。日頃ライブで声出してるんですけど、歌いながら踊るのとは違いました。15分のステージとは全然違います」。アイドルのメンバーやファンも、怪我してからデビューまでの姿勢を知っていて、包帯を巻きながら歌っていた姿を見ていて、彼女のやりたいことを応援してくれていた。マイナスなことは一切言われなかったという。「実際に見にきてくれて、カッコよかったよという言葉が多かったです。怪我して諦めずにデビューできて、本当によかったなと思いました。みんなにプロレスラーとしての自分を見てもらえて。実際にその前からプロレスの曲(『リングに立つ』)を歌っていたんです。練習生の頃から、今度プロレスやるからとプロレスソングができて歌っていて。わからずに歌っているのと、実際にデビューしてから歌うのでは、歌詞への感情の込め方とか気持ちが違うなと感じてました。♪リングに立つ、確かにアザは増えていくけれど、心のキズは消えてゆくような気がする♪とか、♪女をもっと磨くためにここに立っている♪と、歌詞でいただいて、あっカッコいいなと思ったんです。実際、こんなに体削って、痛いこともやりながら、みんなリングの立ってるんだというのを感じたら、言葉も深く見えてきて、私はこのリングに立てて、本当に嬉しいし、立ったからには、選ばれたい。結果を残さなきゃしょうもない。団体のベルトもたくさんあるから、いつかはチャンピオンに!と思いました」。

color'sのリングで行われたアジアドリームタッグの防衛戦

デビュー1年目で戴冠

無事デビューを果たし、4月29日の板橋大会で、早くも他団体の中森華子(PURE-J)と初シングルが組まれ、6月には駿河メイからプロ入り初勝利した。7月29日には、スターダムのジャングル叫女と対戦。「他にも、沙紀さん(現在のリングネームはSAKI)、や米山(香織)さん、いつも組まれるのは、シングルが多かった気がします。気合は入りました。他団体の方を呼んでくださるというのは、チャンスという自覚はあったので。ずっと思っていたのは、新人だけど持っているものは全部ぶつけよう。試合が終わった後、さくらさんや、ファンの方が試合の感想を言ってくださるんです。その時、あれがよかったよとか、この技がよかったよとか。それを聞いて、今の自分を知れました。自分は、こう見られているんだというのを知れた。なので、お客さんの応援が、ありがたいなと思いました。どんどん、試合をしていくと、お客さんの声が聞こえるようになって。声かけてくれるのもパワーになってましたね。叫女さんとの対戦、当時、スターダムというのをそれほどわかってなくて。頑張りたいなと強く感じたんですが、スターダムさんって外に(選手を)出さないですよね。それがどんなにすごいことだったのか、知らなくて。最近、ようやく知るようになりました」。
ジャングル叫女戦の評価が高く、タイトルマッチに繋がっていく。「すごいよかったとみんなに言ってもらえて。そこで、自分との闘い方とか、自分のプロレスみたいなものが期待値になった、というのを感じました」。挑戦者を決めるトーナメントに勝ち上がり、沙紀とのコンビで、アジア・ドリーム・タッグ王座に挑戦することになった。そして、師匠でもあるさくらから勝利を奪い、初戴冠に成功した。
「沙紀さんと初めて組んだのは5月(27日、北沢タウンホール、志田光&新納刃が相手)。沙紀さんは瑞希さんとコンビを組んでいるイメージがあったんですが、私も水森だから名前が似てる部分がある(笑)。それで、組み出したらコスチュームの色がダブってた時期があって。それで、因縁のシングルマッチを2、3回やったこともあるんですが。沙紀さんは、自分のことも知ってるし、タッグで組んだら、自分のことをリードしてくださるスタイル。すごく戦いやすい。周りも、あってるねと言ってくださって。沙紀さんと闘っていたら、プロレスがすごく楽しい。連携も、タックルとか、カンパーナとか二人とも豪快なパワーがある。沙紀さんの試合中の表情が楽しそう。自分もその表情にひっぱられる。声を出して明るいファイトスタイルと言われるんですが、相乗効果になる感じがしていて。あと、自分のことを見てくださる。ゆなもん、ゆなもんといっぱい呼びかけながら指示してくださる。新人の時は、タッグってどうしたらいいか、わからないけど。沙紀さんが大きな自分をうまくコントロールして、扱ってくれたから、トロピカワイルド(=水森と沙紀のコンビ名)がうまく起動したのかな。(8月21日、新木場で)先輩越えは初めて。しかもデビュー戦の相手で師匠であるさくらさん。初めてのタイトルマッチで気合は入ってたんですけど。期間は短いかもしれないけど、沙紀さんとの楽しい激しいプロレス、タッグで、ずっと続けたいという気持ちがあったので、ベルトを取れた時は、心の底から嬉しくて。私のファイトスタイルはがむしゃらだったんですけど、がむしゃらに当たって、がむしゃらに取った。それにつきますね。沙紀さんのおかげという気持ちが強いです」
最初のベルトは、一度も防衛できず12月に落とした。しかし、2019年3月に再度SAKI(2019年3月から表記変更)とのコンビで王者に返り咲いた。2度目の王座は、4度防衛に成功、2020年3月までキープした。SAKIが率いるcolor’s(2019年1月旗揚げ)の大会でも防衛戦が行われたこともある。「自分がレギュラーと呼べる団体はカラーズさん。あとはYMZさん。初めてレギュラーで一緒に戦ってきたので、未熟な部分も、みんなで成長させてもらった。今、COLOR’Sの4人は、いろんな団体に出ていて、それぞれが旅して、また集結する。見ていてかっこいいし。あと、あーみん(網倉理奈)と同じ大会に出ると、勝手に負けたくないなという気持ちにもなります。あーみんとは、体格とか雰囲気とか、どこか似ていると言われる時もあるんですよ。だから余計に負けたくない。気持ちは、同期。闘っても、タッグを組んでも負けたくないです。SAKIさんは、“ゆなもんはカラーズの一員だよ”と言ってくださっています。SAKIさんについて行く気持ちもわかります。人を引き寄せる、束ねる人なので」

高橋奈七永との出会い

ベルトを獲得して2カ月後、希月あおいの引退試合(10月27日)があった時、多くの団体から選手が参加。その時、組まれたのが、高橋奈七永&水森由菜vs米山香織&藤ヶ崎矢子。「トロピカルとパッションが組んだら面白いとなって。そこで、初めて、女子プロでなりたい選手というのが高橋奈七永さんだと気がついたんです。奈七永さんみたいに強くなりたい。組んでみて、よりその気持ちが強くなったというか。その試合がきっかけで、11月(8日)に我闘雲舞の大会でシングルマッチをやったんです。憧れの選手とシングルできるというのでテンション上がってたんですけど。たまたま体調が悪くて、気持ちは出せたんですけど、試合内容としては、頑張ったね、という必死さだけが残った試合。もっとぶつけたかったのに。奈七永さんの技もラリアットも痛いし、強いし。ただ必死に返していくしかできない。強いってこういうことなんだなと奈七永さんの強さを実感して、悔しいという気持ちが残りました。不甲斐なかったんですが、それでも、お客さんや関係者には“よかったよ”“気持ちは伝わってきたよ”とお声がけいただきました」。
水森が憧れたと同時に、高橋奈七永からも評価され、高橋が当時所属していたSEDdLINNNGのリングにも呼ばれることになる。そして、12月28日のイリミネーション6人タッグ(さくらえみ&駿河メイ&水森vs高橋奈七永&水波綾&沙恵)で、高橋から勝利し、試合後に、BEYOND THE SEAのベルトへの挑戦者に逆指名された。「2月(28日)に挑戦することになりまして。ビッグチャンス。野心家の私からしたら、とんでもないこと、すごい嬉しくて。その時の自分は、勢いもあったんですよね。良い流れがあって自分が引き寄せているパワーみたいなもの。いい巡りがある。タッグのベルトは落としたけど、今ならいけると思って。水森由菜の闘いの中でも、一番思い出深い、自分の力を全部発揮できた試合でした。この時の気持ちとか感情とか、勢いとか、お客さんの声援とか、一番だなと思えるぐらい、たくさん応援していただけて。奈七永さんと他団体のメインで戦えて、プロレスラーとして、何て誇らしいんだと思いました。ベテランと新人、側から見たら、わかりきっていることですが、それでも、もしかしたらと思わせられる何かを、みんなに感じさせられたと思うし。奈七永さんもあんなに強いけど気持ちを出して声を出すじゃないですか。だから自分も負けないぐらい気持ちとテンションを出して、ぶつけられたと思います」

2018年8月、アジアドリームタッグ王座を奪取!

SAKIとのコンビで、再度アジアドリームタッグ王者に

我闘雲舞退団

ベルトを獲得して爪痕を残し、高橋奈七永との出会いで覚醒し、順調にキャリアを積んでいたが、2020年に起こったコロナ禍が、彼女の気持ちに変化をもたらした。興行に制約がかかり、我闘雲舞もChocoProとタイトリングして無観客の試合映像配信を始めていた。
「世界中に広く配信しているはずなのに、自分の視野が狭くなってしまったんです。この数年、ベルトに挑戦はしているけど、取れてるわけではないし、何か爪痕を残しているかというと残してない。ChocoProになって自分というレスラーは、何なんだろうと自問自答して悩んでいた時期が長くて。どうしたらいいんだろうと。自分は、どう変わったらいいんだろうとか。このままじゃいけないとか。自分を追い詰めていた時期があったんですね」
そして、団体の代表でもあるさくらがアメリカのAEWに出向いたり、駿河メイやバリヤンアッキもアメリカに活躍の場を求めたりで、新たな挑戦を始めた。「みんなが好きなことに挑戦している。であれば、自分も我慢している必要はないんじゃないか。今の環境を変えるのは怖いけど。変わらない今よりは、何かを変えたいというのがあったので、退団を決意しました。我闘雲舞10周年で、同期の駿河メイちゃんとの真っ向勝負して負けて、悔しかったけどスッキリしてます。改めてこのままじゃダメだと思いましたね。自分自身を変えたいというのがあったんです。我闘雲舞にいたら、勝手にゆなもんはこれぐらいだろうと決めつけちゃって、安定した自分にしかなれないんじゃないかなと感じていて。自分も、もっと挑戦していかないと、周りのクリス(ブルックス)、高梨(将弘)さん、メイちゃん、アッキ、みんな常に新たなことに挑戦している人たちに置いてきぼりになっちゃう。私は私なりに、考えて、一回離れようと決心しました」(2022年9月21日に我闘雲舞退団を発表)

プロフィール
生年月日:1989年8月2日
出身地:熊本県八代市
身長:156cm
デビュー:2018年2月28日(さくらえみ戦)
得意技:スーパーガール、武者返し、トロピカル☆ヤッホープレス
タイトル歴:アジアドリームタッグ(第5代=パートナーは沙紀、第7代=パートナーはSAKI)
アイアンマンヘビーメタル級(第1526代)
ディスコグラフィ:『三姉妹』(2013年11月27日)、『食べ放題』(2014年6月25日)、『JUMP/バレンタインなど大嫌い』(2014年12月24日)、『サイズが無い/倍返し』(2015年10月7日)、『無理だ!/ゴールを目指して』(2016年8月5日)、『飛び出せ』(2017年11月10日)、『リングに立つ』(2018年6月8日)

新生COLOR'S旗揚げ戦では、欠場した網倉の代役を担った

スターダムの記者会見でも、トロピカル・パフォーマンスを見せる

スターダム初参戦は両国国技館大会

自分のものにしたいというラリアット

フリーの立場

また、2022年3月にスターダム両国大会、5月のNEW BLOODに参戦したことも、少なからず影響があったという。「スターダムに出たことは大きいですね。いろんな人の目に触れる。批判のあるコメントもたくさんあったんです。我闘雲舞にいたら優しいコメントばかり。でも、批判の中にも、自分の中で刺さるものがたくさんありました。私がどんなパフォーマンスをするのか選んだのは、今まで培ってきたものの中で、強さではなく見た目の派手やかさ。水森由菜というプロレスラーの強さという部分を見せれないままNEW BLOOD 2は終わってしまったなという思いがあって。それをいつか見返したいという気持ちがありました」。記者会見や入場時の歌を歌うパフォーマンスが、一部の既存スターダム・ファンの拒否反応を誘発してしまったのだ。そこから、参戦のチャンスをうかがい、11月の広島のスターダム本大会への参戦が実現した。「歌は私の武器だから、入場の生歌は絶対にやうと思ってたんですけど、試合は、とにかく、私の強さを知ってもらえたのかなとは思います。相手によって変わってしまうところがあるので、課題かなと思うんですけど。多分、一生、悩みながら、迷いながら、生きていくのかなと思ってます。そんなに大きくは変わらないかも知れないですけど。少しずつ、自分のプロレスを見てもらいたいなと思ってます」。この広島大会でひめかに放ったラリアットはインパクトのあるものだった。「ラリアットはいろんな人の形があるんですが、フィニッシュにしてほしいと言われています。ゆなもんのラリアットには名前があって、熊本の不沈艦という大好きなスタン・ハンセンさんからつけられたすごい名前なんです。いつか熊本の不沈艦でフィニッシュにできるぐらい自分を鍛えていきたいと思います。まずは、いろんな選手と戦って、ゆなもんでしか出せないプロレスをやりたいなと思っています。そこには、ゆなもんらしい、明るくて、激しくて、さらに、強さを求めたいと思ってるので。目指すものは強さなんですけど、強いだけでない。今培ってる水森を、さらに大きくしていって、何か結果を残したい。みんなに知ってもらいたいです」。

時折見せるドロップキックには注目すべき!

2023年の展望

「まだフリーになって1カ月しか経ってないんですけど、我闘雲舞の中にいた頃と違う気持ちでプロレスができています。もちろん、フリーだから頑張らなきゃというのもあるので、常に危機感を持って。常に見られているし、目立ちたい知られたいという野心もあるし、もっとやっていかないと何も残せないで終わってしまう、年齢的にも時間がないという気持ちがあります。せっかくフリーなのだから、闘ったことのない選手と闘いたい。オファーは断らない。地方でも呼ばれたら嬉しいですし、まだ見ぬ新しい選手からインスパイアされたい。常に変わっていきたい気持ちがあるので。ずっと今のファイトスタイルかも知れないし、1カ月先にはまた違うゆなもんになってるかもしれないし。戦ってきた選手で培ってきたものが、今を作っているから。フリーになったからには、闘かったことがない選手ややってみたい選手もたくさんいるので。選択の自由があって、責任とらなきゃいけないけど、ワクワクしています。競っていく上で、話題になるレスラーになりたいです。お騒がせだけじゃないレスラーにはなりたいと思いつつ。手段は選ばず。来年はガラリと変わってるかもしれないですよ。、水森由菜の今後にトロピカル☆期待してください」

 

このインタビューの直後、左膝半月板損傷の手術を受けることになった。身体も、環境も良い意味で、リセットした2022年の彼女。2023年に、どんな姿を見せてくれるのか、期待したい。

(2022年11月取材)

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