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Image by Olga Tutunaru

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Interview

No Guarantee vol.10掲載(2015年発行)

KAORU

2014年3月22日、東京・大田区体育館で行われた「長与千種produce That’s 女子プロレス」で、

3年ぶりにプロレス復帰したKAORU。

長与が、KAORUのために開催した大会は、女子プロレスの団体や世代を超えたもの。

最後は、華原朋美が『I’m Proud』を熱唱し幕を閉じた。とても感動的なイベントだった。

今回は、その主役であるKAORUさんにお話を伺った。

Interview

KAORU

長与千種を見たことがプロレス入りのきっかけ

高校2年生のときに、夏休みにアルバイトしてたんです。そして当時としては貴重な、ビデオデッキを買ったんです。VHSとベータがあって、わたしはベータを買ったんです。でも見るものがないんです。そんなとき、友達に女子プロレス大好きな子がいて、クラッシュ・ギャルズのビデオを貸してくれたんです。それを見て、長与千種さんを見て、ああなりたいと思って。それで、はまりました。

2学期になってから、練習生になったんです。そして、次の年の1月のオーディションを受けました。そんなに鍛えてもいないのに。フジテレビのスタジオでクラッシユ・ギャルズもいていろんな人がいて、その中でオーディションを受けました。応募者だけでも2000人以上いたらしいです。最終までは残りました。受け身はとれるようになってたんですけど、スパーリングやらせても弱いんですけど。最後のところで、会長だか社長だかに「親が反対してる人?」って聞かれて、私は素直に手をあげたんです。それで落とされちゃったんです。その後、練習生だけの2次オーディションがあって。とりあえず受けてみよう、1回落ちちゃったけど、と。そしたら、スパーリングは、いつも負けてたんですけど、その時、コロンと勝って。受かった2名のうちの一人に入ったんです。

学生時代は、運動神経はよかった方なんで、いろんなことやりました。ちょっとかじっては飽きて辞め。ソフトボール、陸上、バスケットボール、水泳、テニス、剣道、いろんなことやりました。ちょっとかじっては辞めちゃうんですよ。唯一続いたのがプロレスでしたね(笑)。

Interview

KAORU

ジャガー横田とコーチを受けた全日本女子時代

最初は寮に入ります。もともと想像とは違うと思って入ったので、そんなにビックリするようなことはなかったですね。先輩は厳しいだろうし、いじめもあるだろうし。そんなにギャップは感じなかったです。無視する先輩もたくさんいましたけど、「おはようございます」って言っても基本無視だし。中には優しい先輩もいて、挨拶に応えてくれることもありました。そんなちょっとしたことが嬉しかったですし、それを励みにやってました。

あとは、ジャガー横田さんの存在が大きかったです。私たちは、ジャガーさんが教える1期生だったんです。辞めたいと思ったことはいっぱいあるけど、ここで辞めたらジャガーさんが悲しむなと思って。本当に私たちの“お母さん”でした。ジャガーさんを悲しまちゃいけないと思って、みんな頑張ってました。最終的に1期生に、技を分けていただいて、ヒップドロップは私がいただいたんです。あなたには、この技が合うからと。

3月に入門して、8月8日がデビュー。なので、早い方だと思います。何にもできませんでしたけど。キックとボディスラムぐらいしか。私たちのレベルで相手にダメージを与える技はないので、それで、倒して3秒押さえ込むのは、難しい。スタミナを奪ってからの押さえ込みじゃないと勝負がつかないんです。押さえ込みの力は、若手にも、今でも負けない自信があります。

ですけど、新人王のトーナメントは、1回戦で負けたんです。相手の方が、勝ちへのこだわりが強かったんでしょうね。福山かなんかの巡業中だったんです。負けた子は、強制的に帰されちゃうんです。駅でおろされて。厳しいですね、今考えたら。試合にも出してもらえない。それだけ、人材がいたんですね。

お留守番の子は、毎日毎日、ジャガーさんと練習。それはそれで楽しいんです。ジャガーさんと密な時間がとれて。残っているほうが気が楽で楽しかったですね。巡業に出ると、自分のスタイルも決まってないし、先輩にビクビクしながら、仕事をこなすのに精一杯なんです。なので、金銭的には苦しいですけど、寮だし、食費も出るっていうので、気が楽でしたね。度胸がつくのは、巡業に出てるほうだけど。今考えると、技術的にもよかったんだと思います。密に少人数でみっちり教えてもらえるので。

高橋美華とのハニーウイングス

タッグを組むのが主流のような時代でしたから。クラッシュ・ギャルズがいてJBエンジェルスがいて、一つ上だとファイアー・ジェッツとかマリンウルフだとか。自分たちの代も何かつくらなければいけないってなって、それがハニーウイングスだったんでしょうね。二人が似たタイプで、起用なタイプだったんです。レオタードも会社から言われて着ろっていう。多分、こういう感じのコスチュームは、私たちが走りで、それまで、みんな競泳用のものが主流。レオタードってTバックになるじゃないですか。当時は、ほんと嫌で。会長室に呼ばれて、これを着ろって言われたときは、泣いて、嫌だって言いながら。でもノーって言えない雰囲気。後で考えたらよかったんですけどね。自分たちの色が出てきたんで。ハイレグがひどかったんで、本当嫌でした。今はなんとも思わないですけど。

ベルトを穫ったときは覚えてないんですけど、防衛戦で、場外にプランチャして肘を脱臼したのは、覚えてます。骨が出て、それを人に見られるのが恥ずかしくて、場外で自分でなおした記憶があるんです。後楽園だったんですけど、下の控え室で母親が、「連れてかえります。うちの子」って。そのとき、テレビの企画で、高橋と私のお母さんがリングサイドの一番前で見てるっていう絵を撮られてたんです。それで、私が怪我しちゃったもんだから、怒鳴りまくって。それから、ガイアが旗揚げして2戦目までは見にこなかったです。

スタイルが似ていたので、組みやすかったし、楽しかったです。ただ、どっちも攻め派ではなかったので、弱かったですね。恥ずかしかったですけど、好きでした。

Interview

KAORU

ルチャ・リブレとの出会い

私、何でプロレスやってるのか、この時代も、わかってないんですよ。試合することが面白いと一度も思ったことなくて、とにかく苦痛でした。野望とかなかったですし。お金を儲けたいとか、歌を出してクラッシュみたいになりたいとかなかったんですね。でも辞めようとは思わなかった。ジャガーさんがいたから。試合が終わって、着替えてセコンドについても、私のこと見ないでと思ってました。無難に仕事を終えて、早くホテルに帰りたいという感じでした。

そんな時、ユニバーサルのプロレスを見たんですけど、カルチャーショックでした。こんな楽しいプロレスがあるんだと思いました。「やりたい!」って、すぐに思っちゃった。これ、どうやったら修得できるんだろうと思って。とにかく、ユニバーサルに移るしかないと。ずっとメキシコに行きたいと会社に言ってたんですけど、行かせてもらえなかった。ダメだと思って移籍しました。あまり全女から必要とされてる人間じゃなかったんですよ。

移籍はしましたが、そうはうまくいかないんです。ユニバーサルって、最初はよかったんですけど、そのうちお客さんも入らなくなり、試合数も少なくて。バイトをしないといけなくなったんです。初めてですね。あんなにがっつりアルバイトして自分の生活費を稼ぐというのは。実家だったんでガツガツはしてなかったとは思うんですけど、辛かったですね。プロレスしかやってこなかったし。普通に外の世界に出て、アルバイトしながら、試合があったら出て、バイトを終わってからスポーツジムに行って。心ない人は、「こんなところでバイトしてていいの」って言うんです。当時、ラーメン屋さんでやってたんですが、土曜の夕方にテレビでも全女の中継をやってて。ホント傷ついてました。我慢してここにいれば、メキシコに行けると思ってました。でも、なかなか行けないので、自分で、グラン浜田さんに直接連絡して、「行きたい」と。「じゃあ来い」って言ってくださってメキシコに行ったんです。会社がお膳立てしてくれたわけじゃなく。「日本には、帰るもんか」と思って行きましたね。

念願のメキシコでの生活

スペイン語は現地で覚えました。結果1年いましたね。すぐにリングに上げてもらえましたし、けっこうな忙しさでした。向こうでは、ずっとマスク。この顔じゃヒールはできないって言われたんです。外国からくると大体ヒールじゃないですか。日本から持っていったマスクが役に立ったんです。最初は、簡易なゴムがついてるようなマスクで。

私はどうも胃腸が強いらしく、海外いろんなとこ行ってますけど、一度もお腹を下したことないんです。メキシコから太って帰ってきました(笑)。現地の人も飲まないという水道の水を飲んでも、こわさなかった。下田美馬も行ってますけど、痩せて帰ってこないですもん。水があってるんでしょうね。楽しそうですもん。変なしがらみもないし。

試合があれば、少ないですけどお金は入ってくる。物価も安いし、ちょっとお金を持っていれば全然生活できるんです。試合があるときは試合をして、トレーニングして。毎日が、その繰り返しなんですよ。火曜日はこの会場、土日は大きいところとか、曜日によって試合があるんですけど、メンバーに入れてもらえたら、それしかしなくていいので。向こうは自分のことしか考えなくていい。体を鍛えて、お客さんを楽しませて。今になって考えると理想ですね。

トレーニングは、毎週曜日が決まってて。グラン・アパッチェがコーチをしてくれました。いろんなことを教えてくれました。いい先生だと思います。ジャベ(ルチャ流の極め技)も教えてくれました。目からウロコ。日本のガチガチしたものでなく。こうしたらこうなるんだって、すごく面白かったです。こういう決め方があるんだ、と。飛んだり跳ねたりのイメージしかなかったんですけど。種類たるや覚えきれないくらい。

エンプレッサ(EMLL)には、日本人担当の人がいて。その人が全部ブッカーやってくれるんです。日本人大好きな人で。簡単なスペイン語しゃべってくれるし。ずっと、いっしょにいましたね。レオノノ。ペオペオってみんな呼んでて。私が最初、親しくなったのは。それから、みんな、その人を頼って。その人が全部やってくれましたね。

メキシコのギャラってお客さんが入った歩合なんですよ。前のほうの試合の人は、それなりのパーセンテージでもらうんです。メインのほうはそれなりにもっていく。お客さんが入ってない会場では、アカプルコとかで2000円とかでやったことあります。それでも、行き帰りのバス代はでるし。ホテル代はでる。夜中に経って朝着くんです。試合まではフリータイムなので、海で遊んで、試合してハネる。楽しかったです。危ないって言われてましたけど、一人で行ってました。バスに乗れば着くだろうしって。たくましかったですね。

海外に行くと何でもやれちゃうもんです。怖いって思ったこと1回もないんです。自分をドラマの主人公として見るんです。客観的にみて、自分の中でカッコつけるんです。キャリーバッグを引いて、颯爽と歩いてる。あたかも台本があるかのように行動するって決めるんです。そうすると、できる。がんばれる。くじけそうなこともありますけどね。それも台本だと。どんなに迷子になってもカッコつけて歩くんですよ(笑)。そうやって乗り切ってました。

プロフィール

1969年2月9日生まれ。長崎県佐世保市出身。日本人ルチャドーラの先駆者であり、覆面レスラー『インフェルナルKAORU』『Dara』としての一面も持つ。1986年全日本女子でデビュー、その後、ユニバーサルに移籍、フリーを経てGAEA JAPANに所属、以降はフリーで活躍。タイトル歴は、第6代・第9代全日本タッグ王座(パートナー:高橋美華)、初代JC-TV認定女子シングル王座、第7代JWP認定タッグ王座(パートナー:福岡晶)、第7代AAAWタッグ王座(パートナー:尾崎魔弓)、初代大山プロレス女子シングル王座、第2代・第5代OZアカデミー認定タッグ王座(パートナー:尾崎魔弓)、第8代OZアカデミー認定無差別級王座、第4代WWWD世界タッグ王座(パートナー:下田美馬)

※2022年8月8日に引退。引退試合のNEWSはこちら

Interview

KAORU

フリーのパイオニアからGAEA JAPANとの出会い

そんな気はなかったんですけど、まったく。フリーにしかなりえなかったので。メキシコから帰ってきたんですけど、仕事もなく。メキシコでお世話してた全女の人が、声かけてくれて。フリーになってウチに上がらないかって言われて。じゃあ、そうしますって。試合をしたかったし、全女は試合数もハンパなかったんで。それだけで、生計をたてるんだったら、出ます。そうしないと出してくれないんだったら、そうする、と。

全女に参戦してるときに全十字靭帯切って、我慢してやってたんですけど、オペとリハビリで1年棒にふってるんですよ。その間かな。新団体をつくるという噂も話も知らない、そのとき、「長与ですけど」って自宅に電話がかかってきたんです。まさか、長与千種から電話がかかってくるとは思わず。
「どちらの長与さんですか」って答えて。
「長与千種です」と。

それまで、そんなに接点なかったんです。全女にいたときは、ライオネス飛鳥さんにかわいがってもらっていたんです。ジャガーさんの系列で、トモさん(飛鳥)に目をかけてもらってたんです。。長与さんのファンで入ったんですけど、長与千種が好きだという同期の長与さんへのアピールがすごかったです。ほとんどが長与さんファン。そこで自分はひいていった。試合を見て注意してくれたのも、トモさんだし。まさか、長与さんから電話がかかってくるとは思わなかった。聞いたら「一回、食事しませんか」と。断る理由もないし、行ったら、社長がいて、長与さんがいた。団体の話は、ビックリしましたね。

当時、お金のためにプロレスやってたようなもんです。とにかく、試合をすればお金がもらえるから。生活のために試合やってました。なので、私の代わりはいくらでもいるんだなと思ってやってましたし。「あっ、私を必要としてくれる人がまだいたんだ」と思って。うまい選手だというのも認めてくれてたみたいで。ありがたかったです。若手も入ってくるから指導もしてほしいという話をされたときに、二つ返事でハイって言いたかったんですけど、実家で暮らしてたし、両親に心配をかけていたので、「気持ちは決まってるんですけど、母親と相談させてくだい」と言って帰りました。母親に話したら「すぐ返事しなさい、やりたければやりなさい」と。多分顔が違ったんだと思います。

GAEA JAPANは、長与さんが引退してからつくった団体なので、注目されてました。若手のトレーニングは、私が全部みて。オーディションから見ていて、何もできない子を教えたのがGAEA1期生です。私は基礎を仕込んで、後からその子の色をつけてくれたのが、長与さん。人によって差はでてきますけど。なるべく置いていかないように。伸びる子は伸ばすようにやりましたね。長与さんの味付け、色づけ、すごいです。ガラリと変わりますから。長与さんは、ものすごいプロレスのことを考えてます。24時間じゃ足りない48時間でも足りない。私は逆に、プロレスのことを考えるの大嫌いなんです(笑)。やるのは好きだけど、見るのは好きじゃなかった。ただ最近は変わってきて、若手の試合を見るのが楽しみになってきました。よく見てます。

 私が、プロレスを楽しいって思えるようになったのは、GAEAで悪役になってからなんです。その間15年以上、よくわかんなかった。ベビーが輝くも、くすむもヒール次第だと思ってます。私が輝こうとは思ってない。どれだけ相手が光れるか、相手に声援がくるかが私の評価だと思ってます。相手に声援がいって、一つでも、光るところが見えたりすると、私はやっという感じですね。それがヒールのやりがいだと思うんですよ。ベビーでやってた自分は、KAORUを演じてたんだと思います。ヒールをやることによって、自然体になれた。

GAEAの時って、長与さんとは今みたいに親しくなかったんです。やっぱり先輩だったし、団体のトップだったし。私は、後輩で、新人を教える立場。指導がいきとどかないと、お叱りをうけて。だんだん、信頼関係ができたころに解散。その前に私が怪我をして。解散するなんて、夢にも思わなかったんですね。ギャラが遅れたこともないし。何で解散なのか、未だにわかんない。本当のところはわからないんです。

私は、GAEAの解散興行の時、大腿骨を折っていて出られませんでした。入院してリハビリをしてたときに、里村明衣子も一緒に入院してたんです。その時、明衣子の電話が鳴って「大変です。ガイアが解散するそうです」。何それって、急いで、道場へ行ったんです。そこには、長与さんがいて、1期生が全員で待ってて。「どういうことですか、何とかなんないんですか」って言ったら、「もう無理だ」って言われたんです。憶測はいろいろ出てますが、理由は分からない。

 この前、長与さんのノンフィクションの番組を見たとき、辞めたくて辞めたんじゃないっていうのを初めて知ったんです。KAORUはこの後どうするって聞かれたときに、「まだ復帰はできないけど日本でやるつもりはない、アメリカかなんかに行って、海外で楽しもうと思う」って言ったら、代表たちが。すごいうれしそうな顔してたんです。なぜ日本でやらせたくなかったのか、わからないけど。すごい安心した顔したんです。何か理由があったんでしょうね。

怪我との戦い

それから、長与さんから連絡があって。長与さんは、辞めた後、店を始めたんですね。私はそれを知らされてなかったんですけど、お酒も飲めないし、うちで働けとも言われなかったし。これでお終いなんだろうなと思ってました。そしたら、「お前、人前にでなきゃだめだよ」って言われて。お店に誘ってもらって。湯島の店に顔を出すようになったんです。

私は、怪我ばっかりだったし、神様が辞めろと言ってるんだろうなと思って。GAEA解散後の復帰戦の時は、長与さんも試合をしてくださったんですが、この試合が終わったときに、「引退します」と言うつもりだったんです。でも、やってるうちに、すごい楽しくてなっちゃって、試合が終わった後、マイク持って「めちゃめちゃ楽しかった。これからもがんばります」って言って続けることになったんです。

引退の2度目の決意

2011年中にやめようと思ってたんです。いつ発表しようかなと思ってて。長与さんにも相談してたんで、「そろそろ辞めようと思ってるんです」って言ったら、「おれが引退試合やってやる」って言ってくれたんです。その発表を待ってたんですが、本当は、3月の後楽園で言おうと思ったんですけど、震災があったじゃないですか。それで、キャンセルになったんです。で、そのまま、同じカードがスライドして、4月に新宿FACEでやることになったんです。3WAYのなんでもありの試合だったんです。ハードコアの。アジャ・コングと尾崎と私と、3人が3人とも当時仲が悪かったんで、どんな試合になるんだろうと言われてたんですけど。私も、後楽園サイズで、どんなことができるかなと、いろんなことを考えてたんですけど。FACEになっちゃった。FACEで何できる?とちょっとガッカリしちゃって、箱も小さいし。できること限られてるなと思いながら、当日、会場に向かったんです。そのとき、朝、長与さんにも電話してるし、長与さんからは「しっかり宣言してこいよ」と言われてるし。

でも神様が罰を与えたんだなと思いました。場外で、机の上にアジャをのせてセントーンをやったんです。それが、場所が遠すぎて、とどかなかった。足が、片方落ちて、全体重が踵にかかっちゃった。そのときは、高いところから飛んだらジーンとするじゃないですか。あれかなと思ったんですけど。なかなか痛みがひかなくて。足首は動くんです。その場にいた若い子がテーピングでかためてくれたんですけど、まったく歩けなくなった。無理そうだなと思ってたら、井上貴子が、止めたんです。「ぜったい無理」。そしてレフェリーストップで、控え室に戻されたんです。そのまま、氷で冷やしてました。まさか折れてるとは思わず。そしたら、救急車が着いたんです。「誰が呼んだの?」。「KAORUさん乗ってってください」「大袈裟だよ」と。でも歩けないし、病院に行ったら、粉砕骨折。踵がグチャグチャに砕けてました。

壮絶な経験

そのとき運ばれた病院で、オペしなければ治らないと言われました。信頼してた先生が横浜にいたんですけど、住んでたのが東京。ちょっと遠いなと思って。こちらでお願いしますということになって。救急でいた先生が、すごい若い人だったんです。研修医から先生にくりあがったばかり。その先生がオペしたんです。「私、プロレスラーでプロでやってるって言ったのに、そんな先生宛てがう?」と思いました。案の定、失敗でしたね。大変でした。入院も通院もひどかった。壮絶でした。病気になったのは、病院のせいだと思ってます。オペは、うまくいったと先生は言ってるんです。でも、その夜中に傷口から出血したんです。そのときから、おかしいんだろうなと思います。

1週間ぐらいしたら松葉杖で歩いてたし、退院してもいいですよって言われたんです。父親が2010年暮れに脳梗塞で倒れたばかりで、自宅のことも心配だったし。自宅も2階だし、どうしようかなと思ったんですけど。その後、週に2回消毒に通いました。

 ゴールデンウイークが始まるときに、傷口がどうも痛むんです。自分では絶対触らなかったし、体重はかけないようにしてたんです。消毒のときに「先生痛いんです。なぜ、いまごろ痛いんですか」って聞いたら「あれだけの手術しましたからね」で終わったんです。血液検査もせず、「痛み止めを出しましょうか」と。ボルタレンとか。飲んでも2時間ぐらいで、痛みがぶりかえしてくる。我慢するしかないなと思いました。でも、その次に病院いく予定の前日、朝から震えが止まらないんです。母親が出かけてたから電話して、「すぐに帰ってきて」。そして、これは、おかしいから病院行こうとなって。震えと高熱と痛さで。病院に電話したら、すぐにきてくださいとなって。行って、血液検査をしました。その間も震えてるんです。先生は、そんなにひどくないだろうと思ってたらしく、帰そうと思ってたみたいです。


 血液の中にCRPという数字があるんです。人間の中に炎症があると数値が上がる。打撲とかして痛いとか、風邪をひいたりして熱が出たりすると、体の中に炎症がおきて数値は2ぐらいまではいくんです。普通は0.00いくつ。いっても0.02とかなんです。そこで、私そこで15あったんです。それで救急入院。抗生物質を点滴で打つって。でも痛みは続いてるんです。踵からピンが出てて、それで炎症が出てる。菌が骨の中に入っちゃってるんです。痛みで寝れない。抗生剤うっても、CRPの数値は下がらないし。次の日も、昼まで待ったんです。でも治らない。これ以上は出せませんって言われ。泣きながら、うなってました。昼になったら、偉い先生がきて。「命のほうが大事だから、ピンを抜きます」って言われました。その場でウイーンと抜かれて。それから、下がっていきました。感染症でこうなったんですって言われて、次、感染症の先生がきますから話を聞いてくださいって言われたんです。そこで、初めて骨髄炎っていわれたんです。「ちょっと待って、私、骨折しただけなんですけど」。抗生物質を毎日点滴するしかない。骨の中に菌が入ってるからそれを殺すには、抗生物質しかないと。日に3回、1時間ずつ。毎日毎日。そのうち日に2回になって。

私、その頃、手根管症候群を患ってたんです。手の筋肉が発達しすぎて、神経を圧迫して動かないっていうもの。再入院してから、手首も痛い、肩も痛い。最初にオペしたときに、松葉杖って手首でつっぱるんだけど、できないから脇で挟んでた。それで肩を痛めてるんだなと思ってた。夜中に痛みで起きたり。痛くないところをさがして寝て。

それが勘違いだった。先生には、肩が痛いとずっと言ってました。そしたら四十肩っていわれて体操しなさいって言われて、本ももらって。まじめにやったんです。でも全然治らない。退院してからも治らない。松葉杖もつけず。やっと装具つくってもらって退院できた。退院間際に、感染症の先生に「肩が痛いんですか」と言われたんです。「ずっと入院してから訴えてるんですけど、いま頃?」。CRPの数値が落ちないのは、そのせいじゃないかって言うんです。骨髄炎のせいでないって言い始めたんです。そのうち、舌が真っ黒になってきた。立ちくらみがすごくて、ちょっとものを入れるとすぐムカムカするんです。ご飯も食べられず急激にやせてきた。自分で調べたら、抗生剤のとりすぎのときにでることがあると。感染症の先生は、「何でしょうね」と。薬変えたら、治ったんですけど。

それから、1年が過ぎようとしたとき。手が痛いってずっと言ってて。手根管症候群の手術もできるようになるかもしれないので、手の専門の先生に診てもらいましょう、と。1ヶ月に1回しかこない先生だったんですけど。MRIをとってもらった。急を要してないからと。でも、患者は1日でもはやく痛みをとってもらいたい。患者の気持ちをわからない先生ばかり。診てもらったとき、これは、リウマチの人の骨にとてもよく似てると。今度は、膠原病科の先生にみてもらった。血液検査でわかるからと。2週間後に血液検査の結果がでた。でも、リウマチじゃないですと。骨髄炎を患ってたからじゃないですか、と。結果がでたら、リウマチじゃないか、と。その場で泣きくずれて、「こんな病院いたくない」。

横浜の先生に相談したら、紹介してくださって。そこが、リウマチと整形外科が一緒になった科だった。いろんな資料見せたら、「大変だったね」と。でも、やっぱり、リウマチだった。抗生物質のとりすぎで、免疫値が下がって発症したとか前の病院では言われたけど。「今何飲んでるんだ?そんなのすぐやめなさい」。違う薬を飲んだら、すぐに下がったんです。一気に。親指ひとつしか動かないときがあった。全部、リウマチが原因だった。痛みの原因がやっとわかったんです。手根管症候群があったので、その後、両手はオペしました。

本当は全治3ヶ月だったのに、3年かかってるんです。全然、病気をみつけられず、人の痛みをわからない先生が多すぎて。言い訳も、たまたまとか、万に一つとか。病院は怖いですね、選ばないと。

OLの経験

怪我をしていた11年の秋に、山田敏代が声かけてくれたんです。腐ってたから。「うちで働きませんか。1週間に1回でいいんで」。立ち仕事に自信がなかったんで、1週間に1回ならいいやと務めはじめたんです。少しでも稼がないとと思って。

そのうち、貴子が、私がおかしくなってると思って、声かけてくれたんです。貴子は練習生の学生のときから知ってるんで。神取しのぶさんに、お願いしてくれて。「このままでは、KAORUはヤバい」と、事務仕事を手伝ってって言われて。それが週に2回で。それで、外にでるようになったんです。でもPCができないんです。LLPWXのときも電話番ぐらいしかできなくて。たまにブリバトの練習をみたりはしましたが。

その後、仕事しなきゃとハローワークに行ったんです。行ったら、担当の人が良い人で、事情も話して、「何もできないけど」って。で、選んだのがタカキュー、もうひとつはPC不問って書いてあった新宿の金融関係の会社。どちらかと思ったんですが、タカキューは家から近いという理由で選んだんです。自転車で通えると思って。面接した時、まわりはみんなリクルートスーツ。ジーパンとセ−ターとジャケットで行ったので、これは落ちたなと思ったんですけど。女性の面接官の人と、話が盛り上がったんです。面接終わって、その日は、山田の店にアルバイトに行ってたんです。そのとき母親から電話があって。「二次面接きてくれ」って言ってるよと。

で、本社に行って「なんで受けたの?」。「家が近いから」。「タカキューって知ってる?」「行ったことはないんですけど、紳士服の」と。何もできないって、さんざん話したんですけど、部長といっしょに面接してくれた人が「部長どうします?後日連絡でいいですか」って聞いたら。その部長が「いいんじゃない。合格で。早い方がいいでしょう。働きたいんなら」って、その場で合格にしてくれたんです。時給は低いですけど。これも縁だなと思って通うことになったんです。とにかく何もできないんですけど、隣の席の人も、まわりの人も、いやな顔せずに教えてくれるんです。すごい楽しくなりました。お給料もらいながらパソコン教えてもらってたようなものです。10時から5時まで。まじめに働きました。

GAEAのときも朝決まった時間に行ってたし、決まった時間に行くっていう生活は苦痛じゃないんですよ。終わりの時間は決まってるし、バイトの経験もあるし。5時には終わるので、ジムにも通えるし、自分の時間も持てるし。何もマイナスな面はないですね。そして、すごい私のことを理解してくれて。今は、巡業がはいると、お休みしちゃうんですけど。「いいよ、がんばって」って。復帰戦のときは50人見にきてくれて盛り上がってくれました。今も応援してくれてます。部署は人事総務部。中に人事、総務、給与とあって、中をいったりきたりしてます。フロアに150人ぐらいいるんですけど、みんな、私のことを知ってくれてる。会長自ら花束贈呈してくれましたからね。コスチュームにロゴをいれたいぐらいです(笑)。

Interview

KAORU

復帰の話から、人の縁がつながっていく

プロレスは辞めるつもりだったんで、引退興行も決まりかけたんですけど流れて。やっぱり落ち込んで病気にはなりますよね。でも、長与さんも、何かと気にかけて連絡くれてたんです。

「復帰はどうするんだ?」
「絶対後悔が残るから、1回はリングにあがりたい」。

その間にいろんな人との出会いがあったんです。2013年の出会いはすごく大きくて。いろんな人と出会えて。その前から復帰の話は出てたんですけど。

 私の場合は、韓流つながりなんですけど。家にいるときドラマを見てて、だんだんハマっていたんです。私のいとこが芸能プロダクションをやってるんですね。そこで、フジテレビのプロデューサーが食事したいとずっと言ってるよと。それが叶ったのが2013年。私と同年代の女性の方で、その人がクラッシュ・ファンで、長与千種のファンだったんです。私もそうだったと話が盛り上がりました。行ったときが、超新星っていう韓国のグループの打ち上げのご飯の場だったんです。超新星の日本での所属プロダクションがプロダクション尾木で。そこの娘さんもきてて、その人も長与千種ファンだったんです。その人とプロデューサーが仲が良いんです。そのプロダクションに朋ちゃん(華原朋美)がいるんです。それで、朋ちゃんの舞台があるから見に来ないって誘ってもらって、『I’m proud』を聞いて。号泣しました。それが縁なんです。舞台裏で会わせていただいて。どうしても入場曲に使いたいと話したら、どうぞ使ってくださいと。朋ちゃんも6年かけて復帰した方なので。握手しながらお互いがんばりましょうねと涙が止まらなかったですね。それから、尾木さんの娘さんとプロデューサーと長与さんの店に行きました。

そこから、いろんな人を紹介してくれて。復帰の話も進んでて、「長与さんが興行するんなら試合しなくてどうするんですか」。まわりが、新団体はどうするとか。トントン拍子に話が進みました。私は、復帰戦をお願いしただけなのに、いつも間にか、新団体の話になってました。長年の夢でしたので、やっと背中を押してくれる人が現れた。それでどんどん話が大きくなっていったんだと思います。あんな大きな会場でやるつもりもなかった。その人たちは、長与さんを尊敬してるわけです。自分たちの青春時代だし。「あなたがやらなくてどうするんですか」って。で、本人もその気になって。そのつながりが、縁がすごかったです。

Interview

KAORU

新団体は、必ずうまくいかせる!

今回の新団体も、GAEAのときみたいになってほしいなと思いますね。とにかく若手を集めて。私は、基礎から教えるのが好きなんです。何もないときから、後ろ受け身とかできなくて泣いてた子が、コーナーから飛んだりするわけですよ。それ見ると感動ですよ。そういうのが、忘れられなくて。とにかく、新しく教えたいですね。プロレスが好きな子が入ってきてほしい。

怪我は本当に罰があたったと思ってたんです。怪我って何かしら意味がある。後でわかる。理由がわかることもある。今までもあったんです。納得できる理由がみつかること。結局、新団体の流れにいったことを見ると、私は、このために怪我したんだって、今は思えます。やっと納得できるようにはなりました。今も後遺症に苦しんでますが。新団体は絶対うまくいかせます。私の大事なときには、長与さんがいるんです。プロレス入りのときもそうでしたし。同じ長崎出身で。何かあったんでしょうね、前世で(笑)。

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