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Image by Olga Tutunaru

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Interview

No Guarantee vol.13掲載(2016年発行)

萩原佐代子(女優)

都内某所・80年代の少年たちの心を釘付けにし、グラビアでは思春期の青年たちを惹きつけた女優・萩原佐代子が目の前にいた。
世の中がルービックキューブや漫才ブームに沸き、日本がモスクワオリンピックをボイコットした1980年―。
萩原佐代子はカネボウのキャンペーンガールに抜擢され世の中に出る。
歴代のキャンペーンガールの中には、あの伝説の夏目雅子や、浅野ゆう子も名を連ねている。
ウルトラマン80で王女ユリアンに変身する星涼子の役に抜擢されたのも80年だった。
 

半生を語る

Interview

Sayoko Hagiwara

そんな萩原が芸能界に入るきっかけから語り始めた。
「芸能界に入るきっかけは中学生の時に、原宿を歩いていたら、いきなりスカウトされたんです。当時は多かったんですよ。ホリプロ関連の事務所でした。高校も芸能活動が認められている学校に入りましたね。」
アイスウーロン茶を片手に当時を思いだす様に話は続くー

「それで、知り合いが勝手にカネボウのキャンペーンガールのオーディションに写真を送ってしまったんです」

1968年にペンタゴン経営と呼ばれる多角化路線(繊維・化粧品・食品・薬品・住宅の5事業からなる)を打ち出したカネボウは、その化粧品事業の売り上げ促進のために人気タレントを起用したCMなどで業績を上げた。それがキャンペーンガールと呼ばれている。

「オーディションに送ってくれた方は、万が一私が選ばれたら10万円がもらえる事になっていたらしいんです(笑)それで東京のコンテストがあって、全国のコンテストがあって・・・。1位は松原千明さんだったんです。それで私はアイドル賞だったんですけど、夏のキャンペーンガールに選ばれたんです」

当時のコンテストには驚きの審査が隠されていたという。

「当時、何故か筆記試験がありましたね。80年代を生きる女性っていうのがテーマでしたから。当時首相になったサッチャーさんについてを論文的に書いたと記憶してます」
コンテストでアイドル賞を受賞し見事夏のキャンペーンガールに選ばれた萩原佐代子。
著者も当時化粧品屋などで彼女のポスターを見た記憶がある。
 

「一ヶ月くらいロケで学校休んだんですね。真っ黒になって帰ってきたんですけど、学校に久々に行ったら、みんなの対応が変わってましたね。駅前に萩原(看板)が立ってるよとか(笑)先生は優しくなりましたしね」

キャンペーンガールになった事で、女優への道が開けることになる。
74年に「ウルトラマンレオ」で終了していた円谷プロ制作の「ウルトラシリーズ」。
再放送などで火が付き再びブームが起こっていた。
そんな中、制作を開始した新シリーズ「ウルトラマン80」への出演が決定したのだ。
「ウルトラマン80」は長谷川初範主演で放送当時は、金八先生の人気などもあり、学園物の要素を取り込んだシリーズでも異色の作品であったが、中盤より通常の路線に戻った。
どのようないきさつで出演がきまったのであろうか?
「特にオーディションとかなかったんです。私の水着グラビアを見たプロデューサーさんが『あの子元気が良くていいね』ってことになって呼ばれたんです。昔のTBSでその中に円谷の部屋があったんです。そこで『ウルトラマンなんだけど出来る?』って聞かれたんですよね。特に何も考えずに出来ます!って答えてしまったんです」

初めてのロケ場所が富士の樹海。果たしてどのような初日だったのか?
「最初にびっくりしたのは主演の長谷川さんがこの世の物とは思えないほどカッコよくて・・。学校ではそんなカッコいい男子はいなかったし、普段の活動はモデルだったんで女性しかいませんでしたから。現場では何もわかってなくて、台詞を早口でバンバン言ってたら、中山仁さんが『後でアフレコがあるからゆっくり話さないと合わなくなるよ』ってアドバイスしてくれました。
嬉しかったのは石田えりさんとの共演でしたね。グラビアの先輩で向こうはすごく売れてましたから。学校で男子が回し読みしてるのも知ってましたし。
えりさんが使ってたバッチを使いまわしで私が使うことになったんですね。初めての時に衣装室でえりさんがそれを付けてくれたんです。
もう心臓がドキドキですよ。吐息とかがかかるんです!あー!映画とかに出てた石田えりさんだとか一人で興奮してました」

 

そんな石田えりとの忘れがたい思い出があるという。
「体育館でトレーニングするシーンがあって、タンクトップを着てたんですね。
昔、性能の良い下着とかないので、私普通にブラしてたんです。
タンクトップの隙間から見えちゃうんですよ。そしたらえりさんが寄ってきてくれて、
『こうやってやるんだよ~』って紙テープで張ってくれたんです。本当に優しくて良い方でした」

『ウルトラマン80』のロケ自体は必死で、ついていくのがやっとだったとの事だが、その後、アイドルの倉田まり子を主役に起用した『気になる天使たち』に出演。
『気になる天使たち』は大人気だった前番組の『ただいま放課後』から引き継いだ学園路線と当時人気だったアイドル達の起用で話題になった。
萩原もそのアイドルの中の一人としての出演となる。
 

Interview

Sayoko Hagiwara

「倉田まり子さんや、名高達郎さん、志保美悦子さん、愛川欣也さんとかすごいメンバーと共演出来まして、自分の中では当時はウルトラマンよりはランクが上なんだろうと思ってました。それ、オーディションだったんで『勝ち取った!』感がありました」

 

アイドル女優として活躍の幅を広げた萩原はその後も『消防官物語・風に立て』に出演が決まる。

『消防官物語・風に立て』は『ナッキーはつむじ風』から続く青春ドラマシリーズであり、メインキャストには故・清水由貴子さんが起用された。

「私は由貴子ちゃんをいじめる役だったんです。好井ひとみちゃんとかも一緒でした。一緒に消防学校に行って訓練しました。この番組のポスターが局とかに貼ってあって、由貴子ちゃんの横とかに自分の顔があって『(時代が)来たっ』って思いました。自分の中ではこれも『ウルトラマン80』よりも大きな番組だと思ってたんです。

子供さん以外が見る番組として。でも実は違ったんですよね」

 

順調にドラマへの出演を続ける萩原だが、一本だけ降板したいと言った作品があった。

意外にもあの大ヒット時代劇だった

「『遠山の金さん』でお光という役を頂いて24話まで出たんですけど、あのオープニングに自分の名前とかがバーンって出たりして凄い良い役でした」

 

萩原が出演した「遠山の金さん」は中村梅之助版以来5作目。そして1979年10月に杉良太郎版第2シリーズが終了して以来2年半ぶりに放送が開始された作品で、高橋英樹を主演に起用した人気作である。

しかし、何故降板したかったのか?

「京都での撮影が多くて、みんなが噂で京都の旅館に幽霊が出るって言ってたんです。怖くて怖くて!新人はそこに泊まることが決まりなのに。片平なぎささんが泊まってたホテルとかに泊めてもらいました。特別に(笑)」

その後、父親役の金田龍之介が芝居に出演する為に降板が決まり、萩原も本当に降板することになるが

「みなさんにごめんねって謝って頂いたんですが、内心は『よしっ!』って喜んでおりました。渡り船に乗って金さんに「さようなら~っ」て叫んで去って行きました」

1983年自身の代表作となるべき作品の出演が決まった。東映で制作している戦隊シリーズ「科学戦隊ダイナマン」である。

「科学戦隊ダイナマン」は「秘密戦隊ゴレンジャー」から続くシリーズ7作目の作品で萩原はダイナピンク・立花レイの役となった

「カネボウの時のコンテストを見ててくれたプロデューサーさんが抜擢してくれたんです。私は当時JAC(ジャパン・アクション・クラブ)に憧れてたからすごく嬉しかったです」

 

ジャパン・アクション・クラブは俳優の千葉真一が世界に通用するアクションスターを養成するために創設。80年代には真田博之や志保美悦子の人気に火が付き、大ブームとなる。東映のヒーローシリーズの主役やアクションシーンを担当することが多かった。

 

「JACと会えるんだ~みたいな感じでダイナマンを受けました!すごい人気でしたもん!あとヒーロー大好きでしたからね。キカイダ―のジローとか」

 

ダイナマンの顔合わせの時にはこんなエピソードがあった。

「顔合わせの後に衣裳部屋で採寸とかがあって、レッドの人とかが『佐代子って足長いよな~』とか遠くで言ってるんですよ(笑)。聞こえないふりして『よっしゃ!あの人はいい人だな~』とか心で叫んでました。そんな中でブラックの春田純一さんが、すごい私にフレンドリーなんです『佐代子、佐代子、佐代子~』って。口説いてるのかなとか思ってたら、その後帰りの電車で気が付いたんですけど『警視庁殺人科』ってドラマがあって私、誘拐される役だったんです。その時の誘拐犯が春田さんだったんです。

だから『久しぶりだな。佐代子。仲良くやろうな』的なノリだったんですよね。それを私・・・(爆笑)二十歳の私に惚れた?とか思って(笑)」

 

撮影が始まると嫌な再会もあった。監督の東條昭平との再会である。

「ウルトラマン80」撮影時に散々怒られ鬼監督として記憶に残っていた。

事実、役者やスーツアクターには「怖い」という印象が強い。

 

「現場に言ったら、なんで円谷の監督がいるの!?ってびっくりしました!『バカ!バカ!』っていうので『私はバカではありません!』って言い返してしまいました。でも結果的には私は大好きな方になりましたけどね」

 

撮影中のエピソードでは

「最初の撮影の時に崖から海に飛び降りるのが怖かったです。私の目には100メートルくらいに見えました。吹き替えで別な方がやるんだろうって思っていたら、自分でやることになっていたらしく『替えの服とか持ってません』とか言ってみたんですが、そんな事はスルーされました。みんな上手に顔が映るように飛ぶんですよね。私わからないから、ジャボンって落ちちゃって『顔映ってないよ?もう一回やる?』って言われたので『はい』って答えたらみんなもやることになってしまい、全員髪の毛濡れてる状態なんです。未だに見直したらわかると思います。1話。あれは私のせいです。帰りは私、ジーンズの下はノーパンでした」

 

苦労した話は

「爆発がシリーズナンバーワンって言われてるんです。髪の毛が焦げてたりとか。耳にティッシュ詰めてたんです。難聴になりました。

ルートが決まっていてそこを走り抜けると爆発するんです。他の男性が本腰で走り抜けていくので、遅い私が爆弾の横を通り過ぎてすぐに爆発するんです。でも、前の人たちに隠れて顔が映らないんです」

 

「科学戦隊ダイナマン」終了後、事務所を辞めることになる。その理由は

「ホリプロの本体の方に入ったんですね。年に一回全員集まって晴れ着で写真を撮る会とかあったんですけど、堀ちえみちゃんだったりとか、甲斐智枝美ちゃんだったりとかがキラキラ輝いてて、もっともっと他にも沢山いるんですよ。その中の私なんかダメだなと思って。このままここにいたら私仕事なくなるって思って。小さい事務所に移りました」

 

しかし、移籍先の事務所ではヌードの話が多くなったという。

「写真集の話がきまして、『ヌードなんだけど』と言われたんですが、やらなきゃ生活できないので。それにギャラが三か月生活できるくらいだったんですね。別にエロいんじゃなくて芸術的なのだからって言ってくれたんで。そうしたらそういう仕事ばっかりになって、意味ないじゃないですか。せっかく演技の勉強したり頑張ってきたことが。

このままじゃ、自分がダメになると思って『超新星フラッシュマン』を最後に引退を決めたんです」

その『超新星フラッシュマン』では初の悪役に挑戦した。ヒーローから悪役になる事への抵抗はなかったのだろうか?

「それはなかったです。お仕事としていただけて。これを足掛かりにもう一回と思ったんですが、この仕事の最中でもヌードの仕事とか来るんです。だんだん心が折れていきましたね。昔なんで25歳までには結婚しないといけないというのも強くって。それで引退しました」

 

引退後、心身ともにリフレッシュする為に海外留学を果たし、結婚。

離婚するが現在は2度目の結婚。3児の母。

なんと現在のご主人は「科学戦隊ダイナマン」で共演したダイナイエロー役であった時田優である。

 

日本ブライダル連盟公認の結婚相談所のカウンセラーを務めるなど新たなジャンルでも活躍をする傍ら、2006年から再び芸能活動を再開。

 

「今はのんびりと好きな仕事をしています。これから自分らしい活動をやっていきます。ノーメイクでも死体役でもエキストラでもなんでもやりますよ」

 

と、冗談っぽくかたる萩原の表情は穏やかである。

プロフィール

萩原佐代子(はぎわら さよこ)

1962年12月1日生まれ。

80年にカネボウキャンペーンガールに抜擢されたのを皮切りに、

「ウルトラマン80」「科学戦隊ダイナマン」など数々のドラマに出演。

現在は結婚相談所のカウンセラーを務める傍ら、芸能活動を再開。

2016年には劇団虹色くれよん「ノルマ」で演劇にも挑戦した。

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