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Image by Olga Tutunaru

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Interview

No Guarantee vol.13掲載(2016年発行)

西村 修

2011年から東京都文京区の区議会議員として活動する、現役プロレスラーの西村修さんに話を聞いた。

新日本プロレス時代から、クラシック・スタイルのレスリングを追究し、

70年代のアメリカンレスリングやヨーロッパのキャッチを学び、

最近は、元NWA世界王者のドリー・ファンク・ジュニアを定期的に日本に招聘している。

議員活動では、食育をライフワークとして、さまざまな取り組みにチャレンジしている。

Interview

Osamu Nishimura

憧れの新日本プロレスに入門

 プロレスは、子供の頃から憧れでしたね。学生時代はアマレスや柔道とか上位で活躍するような選手じゃなかったんです。小学校は少年野球、中学はバレーボールをやってましたが、ただのファン上がりなんですよ。新日本プロレスばかり見てましたので、ヒーローは(アントニオ)猪木さんであり、藤波(辰爾)さん、坂口(征二)さん。好きが嵩じて自分自身でやってみたくなったんです。新日本プロレスのプロレス学校のオープンと同時に入りまして、そこが部活替わり。(山本)小鉄さんの指導で、学校が終わったら等々力の道場に通うかたちで。高校2年から3年。それで運良く入門テストに合格。応募者総数は、書類から含めたら150人だったらしいんですけど。50人落とされて、最後面接で5人受かりました。学校は、20代後半の人もいたり、全員が全員プロを目指していたわけではないんですが。プロを目指してたのは1割ぐらいですよ。

 

 あそこの道場で練習できるっていうんで。新日本の道場そのものですから。1時から8時まで使えるんですけど、普通に現役の選手が入ってきますから。ファンにとっては、とんでもない環境ですよね。その中でも、6時から8時までは、小鉄さんのプロ養成コースがありまして、そこのメンバーに入って。メニューはプロの人の10分の1ぐらいかもしれないですが、スクワット500回、腕立て100〜200回やらされました。受け身とかブリッジとか、基礎の基礎。中学3年のときから本気で体を鍛えようとバーバル買ってきて練習はしてましたので、なんとかついていけました。

 

 練習していくと、みるみるうちに体力ついてきて。スクワットも500できると1000もいけるようになるんです。1000回できるようにならないと、入門テストにも受からないし、入ってからもついていけないですよ。身長は、高校のときには180cm越えてました。185cm71kgで受かったんです。ガリガリ。太る体質じゃないんですよね。90年代は、110kgが普通。長州(力)さん、藤波さん、武藤(敬司)さん、蝶野(正洋)さん、橋本(真也)さんなんかは138kgありました。外人選手もでっかいのばっかりでしたから。で、81kgになってデビューさせてもらいました。
 入ってからは、どんぶり飯5杯食えと言われるんですが、食べる力がないと飯も食えない。バテちゃうし、地獄でしたね。猛烈な上下関係、しごき、いじめ、体罰。しごき、いじめ、体罰のないプロレスの世界はないですから。ここの教育委員会とは違いますから。デビューまでは1年1カ月。前日、緊張しすぎて眠れなかったです。飯塚(孝之=現高史)さんとやったんですけど。大きく見えるし。心臓もバクバク。後から聞いた話ですけど、なかなか太らなくて、トライアウト的なものがあったらしんですね。あまりショッパかったらレフェリーにしようという話もあったと。ヤングライオンらしい、必死、がむしゃらな試合しかできない。それで、他の連中に必死に食らいついていきましたけど。

Interview

Osamu Nishimura

初めての海外修行

 ヤングライオン杯で2位という結果のご褒美もあったんですが、1993年に海外に。当時は、WWF(現WWE)以外に残っている団体がわずかだったんですが、長州さんからアメリカのフロリダに行けという指示がありました。のんびりした気候の中で体作りに専念しろと。ヒロ・マツダ(元NWA世界ジュニア王者)さんの道場に入って、レスリングを教えてもらって。ボディビルをブライアン・ブレアーのゴールド・ジムで。徹底して体作りをしました。マレンコ道場、素人向けのスクールなんですが、たまに顔を出したり。カール・ゴッチさんとは縁がなかったですね。最初のうちは。フロリダでは、マツダさん、マレンコ、ゴッチさんが3大勢力で仲良くないんですよ。卒業生として多いのはマツダ道場。ハルク・ホーガンを筆頭に。CWFF(フロリダのプロモーション)は既にないんですが、スポータトリアムという会場があって、マツダさんがそこの鍵を持っていて、たまに使ってました。

 

 基礎プロレスの練習、それは厳しかったですけどね。理論的な教えで。野毛の道場(新日本の道場)と言っている事は全然違ってましたね。若手として、「気迫だ、パワーだ、ガンガン行け」ばかりでしたが、緻密な戦法のもと、レベルが全然違う。間合いだったり、溜めだったり。そこで初めて聞いたのは、「プロレスはサイコロジー」。心理学が重要だと。そんなこと聞いたことないですよ。全否定されましたよね。今まで何の勉強してきたんだと。長州さんが現場責任者で、イキのかかる馳さんだったり、佐々木さんだったりをコーチに置く訳です。長州イズムが若手に押し付けられるわけです。私だけ、体がないし、パワーだ気迫だというファイトではないわけです。みんな長州プロレスになっていっちゃうんですよ。そういう意味でまったく違う文学書を手にした感覚ですよ。素晴らしい教授に出逢えた。マツダさんからNWA王者の戦術、話を聞かされたり。3年ぐらいのキャリアでわからないですが、そこで歴史を学ぶんです。貴重な時間でしたね。実戦は、足りなくて月に2回ぐらい。時間ばかり流れていくばかり。会社からの帰国指令を拒否して、海外修行を延長するかたちで残ったんです。

 

​ フロリダから離れ、ニューヨーク近辺に場所を移して。どこかで毎試合は週やってるので。試行錯誤ですね。マスクマンをやらされたり、フンドシで出た事もありました。名前がないし。認知度もないし。その中で名前を上げていくのは大変ですよね。今みたいにインターネットはない時代だし。ECWは月1回超満員でしたね。クリス・ベノワやサブーとやったり。そんなもんですよ。初回の海外は。得たものと言えば、ちょっと体が大きくなったのと、マツダさんから基礎の基礎を教わったぐらい。試合からの経験を得る事はできなかったですね。
 帰国する前に、ヨーロッパに行って、1カ月ずつ道場巡りをしたんです。オランダのクリス・ドールマンのところ。次に、イギリスのウイガン、ビリー・ライレー・ジムに行って。試合で高められないから、そういうところに行こうと。3カ月ぐらいいましたね。フロリダにいたときは、最低限の生活費は会社から送ってもらって、やりくりできたんですが、ニューヨークは、帰国拒否なので、給料もストップされて。で、(元全日本女子プロレスの)山崎五紀さんのレストランで働かせてもらった。ご飯も食べさせてもらって。その頃です。ブル中野さんとか新崎人生と週4〜5回は、みんなでご飯食べてました。1試合のギャラは、100ドル〜150ドルぐらいでしたね。

ドイツでの発見

 そして、もう1回会社から帰国オファーがあって、自分で勉強することが見当たらなくなってたので帰国しました。帰国するも結果が残せず、一番、ふがいない時間だったです。良い試合組まれるんですよね。リック・フレアーと組まれたり。でも対応できない。経験もキャリアもないから。いまだに、自分のワーストマッチは、フレアー戦。何もできなかった。動きに対応できない。バンバン動き回る人じゃなないし。レベルが高過ぎちゃって。顔と指だけで、両国(国技館)のお客さんを魅了しちゃうんですもん。入っていけないですよ。ロックアップ、ヘッドロック云々じゃなく、バリアができちゃってる。どう動いて良いかわかんない。歩き方もスロー過ぎちゃって。体に触れた記憶もないぐらい。自分で受け身をとり動きまわり、これが本当に「ほうき相手でもできる名人」なんだなと思いました。ただそれで、私自身の考えが、70年代80年代の昔のプロレスに、NWA王者の理論に尊敬心がいっちゃったんです。
 1997年に、もう1回海外に行ってこいというのがヨーロッパで。毎日試合できるので。オットー・ワンツのところでした。これは鍛えられましたね。ヨーロッパのスタイルはネチネチしてて、大技じゃなく、いかに技を出さないか、溜めるてお客さんを魅了する、難しいプロレスなんですよ。ラウンド制ですし。結局、ファンの文化がつくり上げてるんです。キャッチ・レスリングっていうのは。日本やアメリカみたいに、より新しいものではなく、歴史とか伝統を最大限に重んじる。19、20歳の女の子たちが50代のトニー・セント・クレアーを猛烈に応援したり。20代のアメリカから来たカッコつけ男なんか見向きもされないですよ。いまのWWEみたいにシェイプアップされたところには、お客さんの目線がいかない。往年の、デーブ・フィンレー、クレアー。車を見たってベンツがたくさん走ってるんですよ。タクシーもベンツだし。ベンツだって安いわけではない。でも乗ってる。そのかわり乗ったら10年も15年も乗る。グッチもヴィトンも関係ない。そういう人が見るものだから、アメリカとは違います。それは勉強になりました。ブランドじゃない、中身なんだと。
 しばらく、ドイツ人の女性とも付き合ったんですが、そうするともっと気質がわかるじゃないですか。勤勉だし。家なんか石造り、100何十年の家だらけ。良いものを買って長く持たせますよね。洗濯機でも、猛烈な水と猛烈な電力で2〜30分出終わらせるものではなく、低電力でトロトロ時間をかけて。食事もそうだし、氷も使わないし。女性と付き合ったもんですから、家族とも仲良くなる。寒い時期は、蒸留酒でできたシナップスというものを飲んで。パーティーでも、レスラーじゃない人と出会いました。一時は、結婚するならドイツ人しかいないと思いましたね。そこまで理解できたので、ゴッチさんと会ったときは、ゴッチさんが言おうとすることがよく理解できました。

Interview

Osamu Nishimura

海外生活の中で価値観創造

 それが、98年に帰国して病気したんです(癌を患う)。それから療養しながら、あっちこっち転々としたんですね。インドに行ったり、イタリア、台湾、アメリカだったり。2000年6月に復帰するんですけど、そのときの新日本との契約条項の中に、海外と往復していいということがありました。そこでアメリカに住居を構えまして。マレンコ道場に通ったり、海で体を鍛えたり。そのとき、マツダさんの側近だったハワード・ブロディ(最近のNWAの会長)の興行があって、ドリー・ファンク・ジュニアが来てたんです。それで近寄っていって、「あなたの生徒になりたいんだ」と。そしたら、「いつでもオカラにきなさい」。競走馬を育てる街で、観光は一切ないですよ。まあ勉強になりましたね。マンツーマンで試合形式のスパーリング。そのときは、まだドリーさんもデッカイですから。必死になって技術を学びました。エルボースマッシュしかり。シンプルな技。どこが凄いかというと、溜め。ガスを溜めるように。今の選手なんて、すぐにガス抜きしようとするんですよね。いまだに勉強になります。そういうのを見ちゃうと、現代プロレスも確立されているのかもしれないけど、あの溜めは、プロレスの神髄だなと思います。新しいプロレスに合わせなくていいと確信しました。75歳の王者は、いっしょに食事していてもお茶飲んでいても、勉強になります。常にNWAチャンピオンなんです。慌てず、沈着冷静に。食事の進め方でも、ずっとプロレスやってるんですよ。しゃべり方のテンポにしろ、内容の重さ軽さにしろ。ショートコントみたいな話はしないですし。すべてがプロレス。
 価値観は、ドイツが大きいです。人間の生き方、ブランドにこだわるではなく、新しいものでもなく、歴史と伝統を重んじる。文明って進化していくじゃないですか。一方で文明を拒否する民族がいる。アブリ人がいたり、アーミッシュとか。ヨーロッパから帰ってきたとき、興味を持っちゃってアーミッシュ村に行きましたよ。彼らは、同じ思想の人だけで村をつくればいいという考え。現代の人に教えようという発想はないんですよね。自分たちのライフスタイルで。いまだに電気を使わないですからね。馬車を使って。自分には、そもそも、それを受け入れられるものがあったんだと思います。いまの人が行ったって、感動するのは無農薬でできたおいしい野菜ぐらいなもんじゃないですかね。今、アーミッシュの人たちがニューヨークに行って週4回野菜を売っていて、ものすごいおいしいと人気らしいです。

政治の道へ

 自分自身は、癌を患って食育活動をやってたんですね。今の子供たち、先進国としてはおかしなぐらい、中身ボロボロ。アレルギーから精神疾患、鬱病、アトピー、自殺者。原点に戻んなさいと講演しながら歩くんです。でも講演したって、効果はそこまではないですよね。良い話だなと思っても、家に帰ったら好きなもの食べて。何をどう動かさなきゃいけないかとか考えると、戦後のアメリカのGHQの政策が出てくるんですよ。これは政治しかないのかなと思っていた時に。国民新党から、最初、武藤さんに話がいったんですよ。武藤さん本人が興味がないもんですから、こっちから手を挙げたんです。亀井静香広島後援会からの話だったんですが、その人たちに面接を受けて。それが2010年の1月ぐらい。その場で、「お前のやりたいことは、わかったから死ぬ気で頑張れ」と。そこからですね。人生が変わってしまったのは。その時は、民主党政権で、ボロ負け落選しました。
 これで火がついちゃったんです。国じゃなくて、もっと小さい自治体で勝負して、結果を出して、改善をして。そっちから始めなきゃダメだと。それで、一番小さい選挙の区議会に出たんです。母方はずっと文京区。祖母の兄も、自民党の区議会議員だったんです。副議長までやられていて。だから目指したわけではないんですけど、いまだに祖父さんに世話になったという人はいます。信頼関係はそこでできちゃいますね。(文京区議)34人いる中で、文京区生まれ文京区育ちって、あんまりいないんですよね。

プロフィール

1971年9月23日、東京都文京区出身。1991年、新日本プロレスでデビュー。IWGP タッグ、フロリダ地区USヘビー急王座等を獲得。2006年、新日本プロレスを退団し、無我ワールドプロレスリング旗揚げ。2007年、全日本プロレス入団。2011年、文京区議会議員選挙において、2,226票を獲得し6位初当選。2015年 文京区議会議員選挙において、2377票を獲得し7位二期目当選。

公式ホームページはこちら

Interview

Osamu Nishimura

食育で根本を変えたい

 私は、議員になりたくてなったわけでなく、学校給食を変えたくて、これを選んだんです。「完全和食化」と、できるならば牛乳完全排除。お茶に戻せ、パンと牛乳を少なくし、日本人本来の穀物を食べさせて、しかしながら、大変なんですよ。「和食推進の日」というのを1学期に1日採用っていうのは、私の要望で決まったんですけど。完全牛乳排除というのは長い道のりがかかります。利権が絡んで。完全排除できた公立学校は1つもないです。新潟県三条市みたいにお米の都市でもできないんですよね。給食中は飲まなくてもいいけど、休憩中に飲まなきゃいけなくなったり。京都市も月に1回和食推進をやってます。
 長野県上田市の真田町(現在は上田市と合併)、に面白いデータを持ってる1400名の学校があって、よくデータをとりに行くんですが。いかに血液をきれいにするか。学力も体力も免疫力も人格形成まで、すべてに影響を受けるから、肉を中心にしたアメリカ型の食生活ではなく、肉とパンを排除しなさいという栄養士さんの陣頭指揮で、毎日、玄米を混ぜた白米とか、青魚を出す。親も子供たちも教職員も最初は大反対したらしいですけど。町長と学校長と教育長が、必死になって続けて、3カ月でアレルギーが激減して、1年経ったら、学力も上がった。図書館の利用率も上がり、万引きはゼロになった。給食変えるだけで、変わっちゃって。いまは親がレシピを勉強しにいくような学校になっちゃって。でも全然取り上げられないですよね。当時仕掛けた大塚貢さんという教育長とたまに講演したりしてます。文京区でも議員向けに勉強会をしています。
 食の重要性。親に知識もないし、良いもの食べさせたいとか、子供も味の濃いものを好む。PTAの意見を集約するとおいしいもの、子供が残さないものになっちゃうんです。学校給食っていうのは、食の教育でもありますから。外食産業のメニュー作りをやらなきゃいけないわけじゃないですから。その進め方は教育委員会と話しながら。私の理想は、永平寺と提携して精進料理を出すことです。子供たちが和尚みたいに冷静に落ち着いて。自分が区長なら次の日からやっちゃうかもしれませんが。いきなり精進料理でなく、まず肉をなくすとか。日本の四季の伝統食、なかなかわかんないですよ。そういうものを教えながら和食の良いところを。食材っていうのは、60億の人の細胞をつくるので。子供たちが変わると親の意識も変わるわけですから。そうすると病人も減り、医療費も下がるわけです。私のライフワークです。全部、食育です。食によって免疫力高めましょう。認知症もそうです。区がやっているのは、サポーターや施設の充実。本当にやらなきゃいけないことは、認知症にならないようにすることです。

対処療法ではないやり方をしたい

 また、福井県小浜市っていうのが素晴らしいんです。学校給食だけでなく、高齢者の方にもやっている。おいしい水、米、魚がとれるので、東京とは、条件違うんですが、国民健康保険を黒字にした。根本が変われば、人間が変わるんですから。私は対処療法ではない、やり方をしたい。これは、自分が癌のときに学んだんです。放射線療法とかやっても、体質変えなければ効果も薄い。時系列で言うと、レスラーとして太れなかったから暴飲暴食して、癌を患って、食育に目覚めて、その延長で政治がある。誰が決めた訳ではないんですけど。レスラーになってなければ癌になってない。癌になってなければ、政治家になってない。
 いま、教育委員会が、とんでもない過保護にいこうとしてるんですね。私だけ、逆方向の意見を言っている。弱いものに合わせようとするじゃないですか。強くしようという発想がないんですね。毎週水曜日15時から1時間、この4年間やっているんですけど、体力増強教室をやってるんです。護国寺の44段の階段を使って。幼稚園生でもノンストップでいけるようになりますよ。
 レスラー、悪い面は博学には見られませんよね。実際は頭を使うものなんですが。学識的には低めに見られます。私たちからすると体力もいるし。区議会レベルだと、とにかく誠心誠意、迅速な行動が求められる。身近な目に見えるお願いごとも多い、電灯つけろとか、道路を整備しろとか。そうすると、学力よりも、どんどん動かないといけない。未だに現役というのは、発言の部分で大きいですね。役所の中にもプロレスファンいますし。たまに子供たちを招待したり。ただ見に行くんじゃなくて、私が出てますから説得力ありますよね。
 高校卒業して、この世界入って、サインしてくれ写真撮ってくれとお願いされる立場だったのが、2010年から深々と頭を下げて、リーフレットとかを配るんですが、2時間3時間経っても20枚ぐらいだったりの時もありましたから。最初は辛かったですけど、今はなんとも思わないです。神輿をかついでいただく立場ですから。議員になってから、良い車に乗りたいというのも無くなっちゃいました。リンカーンだのキャデラックだの偉そうに乗ってましたけど、いまは1300ccのbBですから。旅行もさんざんしましたから、行きたいところもないです。前は東京とフロリダの往復。いまは区役所との往復です(笑)。

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