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Image by Olga Tutunaru

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Interview

No Guarantee vol.6 掲載( 2012年発行)

マキ上田

ビューティー・ペア。ジャッキー佐藤とマキ上田によって結成された 一世を風靡したピンク・レディーと同時代の女性デュオ。

1970年代後半にブームを起こした、女子プロレスのスーパースターだ。

1976年11月25日に発売されたデビュー曲「かけめぐる青春」は80万枚を超す大ヒット。

2012年の今年、車のCMで替え歌が使われたり、 ブームの頃公開された映画『真っ赤な青春』のDVDも発売された。

四半世紀の時を超えてマキ上田さんにインタビュー。

Interview

Maki Ueda

プロレス入り

 1970年代、ビューティー・ペアが現れるまで、女子プロレスは「おじさんたちの娯楽」であり、「興業のために体育館を借りるのも大変」な存在だった。それが、女子中高生を引き寄せ、アイドル的な人気を得たビューティーの出現で、状況は大きく変わる 。
現在、女子プロのリングで紙テープが舞うのは当たり前の光景だが、初めてリングに紙テープが舞ったのは、ビューティーのときだった。
 「うちの父がプロレス好きだったんですよ。男のプロレスがあることは知っていたんだけど。女のプロレスがあるなんてことは知らないときで」。父親の勧めで、女子プロレスの門を叩くことになった。
「中学、高校とバレーボールをやっていて、実業団に入るのが夢だったんです。東京に出て来るのは憧れだったんで、良いチャンスだから、プロレスに入れば、寮生活で東京に来れるだろうという思いしかありませんでした。だから、続ける気はあまりなかったんですよ。そのときはね。東京の土地勘を覚えて、いずれ実業団に行ければいいと思っていました」
 「最初、練習のほとんどのランニングとかは学生時代からやっていることだし。あと、柔道の練習なんかもあるんです。ジャッキーは体が堅いから難しかったみたいだけど、私は、体が柔らかい方だったんで。回転レシーブが柔道の形に似ていて覚えが早かったんですよ。柔道は松永俊国さんが、プロレスはレフェリーをしていた清美川さんが教えてくれました」。
「デビュー戦のことはあまり覚えてないんですけど。勝ちました。思い出せないくらい昔のことで。上手じゃなかっただろうし、無我夢中でやって、ホッとしたっていう感じだったんでしょうね。入ってからデビューまで、他のメンバーより早かったから半年後ぐらい。同期は、みんなちょっとずつずれてるんですよね。半年後がジャッキー。 あと池下ユミ」。

ビューティー・ペア結成

 ビューティーの結成は1976年2月。結成の最初の試合で、WWWA世界タッグ王座を獲得。「新人たちは、別々に入ってきてますよね。その中から、マッハ文朱がいなくなった後、スター性があるんじゃないかと会社側からピックアップされたのが、ジャッキーと私。歌を出す事になったけど、売れなくてもいいやっていう二人ですから。 会社が勧めるんで、そのままやっただけですね。テレビに出たいとか、人気者になりたいとかないし。渋々ですね、歌ったのも。まして、名前がビューティーでしょう?ちょっと自分たちとしては照れくさい。歌詞もそうでしょう? 曲は好きだけど。レッスンも1、2回したぐらいで。うまいとか関係なく作っちゃったって言う感じです」。
 その人気は、本人たちも、関係者もまったく予想もしていないものだった。「まず最初、巡業に出て東京に向かってくるときですね。まだ、その当時テレビ中継もそんなになく、客層も中年男性層ですよね。それが女の子がだんだん増えてきたんですよ。変な現象ですよね。千葉かどっかの試合のときに、若い女の子がグループで紙テープを飛ばしたんです。それから、女の子が事務所の前に集まるようになったりで。自分たちも会社のメンバーもびっくりですよね。いつの間にか、出張から帰ってくる度に受けてたという感じでしたね。10代の子が増えて、おじさんたちが減って、中学高校の子が増えちゃって。頑張んなきゃという気持ちになりましたね。強いおねえさんに憧れての応援だとして。だから、嬉しかったですよ」。
 1976年秋、大先輩のジャンボ宮本に勝ってWWWAのシングルのベルトを獲得。リターンマッチにも敗れた宮本は、その場で引退宣言を行った。「毎日が試合。人気もでて、テレビ局とリングと行ったり来たりだったんで。特別な記憶と言われても困るんだけど、みんながほしがるベルトですから、獲れたことは嬉しかったですね」。その後、赤城マリ子に敗れ、王座転落するも、1977年夏に取り返している。赤城は、その後、メインクラスからはずれていく。マキはある意味、世代交代の引導を渡す役割を担っていたのかもしれない。マキは早くからシングルのチャンピオンにもなり、大ベテランとも大きな試合をやっている。そこが、ジャッキーとの違いだ。そして、ビューティー・ペア・ブームの頂点とも言っていいBP決戦が、1977年11月1日、日本武道館で行われた。マキが持つWWWA世界選手権にジャッキーが挑戦。60分フルタイム闘い、決着がつかず。結果、プロレスでは異例の判定でマキは敗れることになる。 「疑問は残りますけどね。納得感もないけど、逆らえない部分もあるし。あきらめでもないですけど、次のチャンスを待とうと思いました」。

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Maki Ueda

BP決戦

 そして、ブームに翳りがみえはじめた 1979年2月27日。日本武道館で、引退をかけた2度目のBP対決が行われた。「最後は腰を痛めていて、完全に良い状態ではなかったんですけど、日にちも決まってますからね。接骨医で針打ってもらったり、サラシを巻いてそのまま上がって。だから当然ああいうかたちになって」。結果、48分7秒。エビ固めでマキは敗れた、後に言われる全女の押さえ込み“シュート”の強引な丸め込みだった。「いまだから言えるんだけど、実は、引退を申し出したのは私なんですよ。その前から、相棒のジャッキーが一時期、恋愛にはしっていたときがあったんですよ。仕事をおろそかにする部分が増えてきて。私生活には何も言わないんだけど。私としては、仕事に支障をきたすことになったら嫌ですよね。かばうことも、許す事もしてるんだけど。身がはいっていない印象がありましたね。だったら二人、別れたほうがいいんじゃないのと思いました。以心伝心でいると私は思ってたんですよ。だけど、彼女の気持ちが離れてるから、仕事的にも、二人一緒にやる技もありますし。会社のほうに、ビューティーは別れた方がいいと言ったんです。個人個人としてやった方が良いと思いました。その方がお互い好きにできるし。それが、引退を賭ける試合までいってしまったんですけど。10代から他の仕事を知らないで、この世界に入ってますよね。何も知らないで、オバサンになるのも変だなっていう違和感もあったし、いろんなことを見たい聞きたいと思ったし。落ちぶれてから出るより、次の世界に行ったとき、いい待遇で迎えてもらえるんじゃないかと思いました。後輩からも言われるんです。武道館で引退というのは、一番良い辞め方だったんじゃないか、と。ジャッキーも引退式は小さいところでやったって後から聞いたし。大きなイベントで引退って豪華ですよね。だから良いところ、いいポイントにでくわしてるんですよね。後で考えると。そういう巡り合わせだったんじゃないかな」。相棒のジャッキー佐藤について「パートナーとして見た場合、当時いたメンバーの中では、一番良い相手。釣り合ったというか良いバランスの相手だったと思います。ちょっと頑固なところはあったけど (笑)。最高だったと思います。喧嘩がなりたたない二人。試合に入ると、アイコンタクトで、何をするかがわかってしまうし。以心伝心。 パートナーが彼女で良かったなと思いますよ」。対戦したときの印象は「1対1の闘いという感じがしないんですよ。無だけど、誰かがいて、まだコンビで闘ってるような感じ。敵として見て闘ってるんじゃないので、一緒に誰かをやっつけるというイメージなんですよね。ちょっと複雑だけど」。

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Maki Ueda

自分のスタイル

 時代が違うので、単純な比較はできないが、武藤敬司は、試合は自分の作品だと言っている。BP対決のときは作品をつくってる感覚だったのではと問うと。「私はそういうタイプじゃないから。試合 をするときに作品として考えると、どこかでこだわらなきゃいけないじゃないですか。こうしたいとか。お芝居みたいにカッコつけてできるわけないじゃないですか。そのときの自分の感情が入ったり、興奮したり、お客さんに動揺があったり。そういう空気 の流れの中で自分も動いているから。エンターテインメントとしてみると失格かもしれない。私はカッコつけてやってないから。人によって違うだろうけど、私の場合は、自分の感情、周りの空気、に乗せられて出てったり。単純な気持ちだけで闘ってきてたから。自分の赴くまま、そういう形の試合だった。こだわりはないから、自分の成り行き。私はこういう性格だから。計算してできるものじゃないって私は思ってました。いろんなタイプがいるから面白いですよ」。

プロフィール

1959年3月8日、鳥取県出身。1975年3月19日にプロレスデビュー。1976年2月、ジャッキー佐藤とのコンビで、WWWA世界タッグ王座を獲得。同年11月にビューティー。ペアとしてレコードデビュー。80万枚の大ヒット隣女子プロレス・ブームを起こす。1976年6月、WWWA世界王座獲得。1977年には映画『真っ赤な青春』(東映)も公開された。19878年8月、オールパシフィック王座獲得。1978年ジャッキーとの敗者引退マッチに敗れ引退。1979年、プロレス引退後は、女優としても活躍。

現在は、東京都浅草の釜飯屋「田毎(たごと)」で女将を務めている。

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Maki Ueda

引退後

 引退後は、ヒーローものの『バトルフィーバーJ』や『仮面ライダー スーパー1』などにも出演した。「やめた後に入ったプロダクションが、このあいだ亡くなった長良じゅんさんのところ。氷川きよしさんを育てた人。どういうつながりで入ったか忘れちゃったんですけど。演歌歌手の事務所なんです。歌は1曲出しましたが、普通の新人でないし、ファンの子もついてきてるのもわかっているし、歌唱的にも演歌ではないですし。ずっと歌手を目指してたわけでもないし」。その後ゴルフの方に行ったが、「高年齢でもできるような汗をかかないのはスポーツじゃないと思ってたので。どうしてやらなきゃいけないのと思ってました。若かったから」とプロへの道はあきらめた。そして、地元・鳥取でスナックを経営。「お店をやった理由は、妹がいて、タレントの店としてやればいいという軽い気持ち。自分の息抜きの場所にして自分が自由に出入りできるようにしたかった。電話が多くて困りましたけどね。ファンのものですとかかってきて」。

人とのコミュニケーション

 お客さんへの接し方で、気を遣っていたことがあればという問いには、「特別気にしたこともないし。こっちが緊張したり、気を 遣ったりすると、相手も堅くなっちゃうじゃないですか。だから、さらっと自然に、だったと思います。相手は知っていて店にくるわけでしょ。でも私は初めて会う人だし。 丁寧すぎても、相手はしゃべれなくなるだ ろうし。あまり意識してないですね。“みんないっしょ”っていう感覚しかもってないので。ああしよう、こうしようというのはなくて。モットーとして“やさしさ”。あたし が好きなんだから、あなたも好きでしょういう感覚。嫌いな人っていないんですよ。 そうすれば、かたくもならない、緊張もしないし。楽にしゃべれば、相手も楽にしゃべれるし。偉そうにしてたりすると、警戒心がでちゃったりするじゃないですか。喧嘩腰でいったら、相手も構えちゃうだろうし。昔からそう。空気を流す事で、相手も空気 にのりやすいじゃないですか。スムーズなゆるい空気をだしてあげれば、タッチしやすい 」。現役時代から今にいたるまで、自然な流れ、ナチュラルでいることが、“マキ上田”のスタイルだ。

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