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清水ひかり

Hikari Shimizu

2021年にWAVEのタッグベルトをSAKIとともに獲得。このベルト獲得をきっかけにリング上のパフォーマンスが著しく向上し、2022年秋には、メキシコCMLLへの海外遠征も実現した。

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Hikari Shimizu

INTERVIEW

体を動かすことが得意な学生時代

小学校4年生からサッカーを3年間やっていた。なでしこJAPANの活躍はあったが、特にサッカーに興味があったわけではなかったという。やり始めたきっかけは「好きな男の子がやっていたので(笑)」。他に音楽も好きで、5年生の時に1年間ピアノを習ったこともあった。7つ上の姉が、ピアノを習っていたこともあり、それまでも遊び半分で教えてもらっていて、多少は弾ける状態にあったという。「ピアノ教室は、結局、楽譜を自分で見て、やるだけ。手の動かし方は、実は楽譜に書いてあるんですよ。指番号とかも書いてあるんです。先生が最終的に言ったのは、指番号が書いてあっても、押しやすいやり方でいいと。だったら、来る意味なくない?と子供ながらに思ってしまい、通ってる意味がないと思って。この本を家でやっとけば完璧やん。月謝も高いしとやめました。弾きたい曲の楽譜を本屋さんで買って、自分で弾きたい曲だけやるというのをやってました」。当時、学校の成績もよく、生徒会の活動も行っていた。姉との遊びの中で覚えた円周率を50桁まで覚え、「今でも言えます。謎の特技です(笑)」。
通っていた中学には女子サッカー部がなく、サッカー・クラブの先輩が入っていたソフト・テニス部に入部。「ランキングで順位をつけられいて、卒業する頃に、あなたは5位ですよと県のベスト5になってました。西日本大会に出たり、団体で2位になったり。なかなか頑張ってましたね。それで、高校の部活推薦がきたんです」。しかし、推薦がきた高校は、髪型の制限があるのと、寮生活をしなければ通えない場所。「ショートカットも、寮生活も嫌だったので、断りました。ギリギリ成績が良いのは続いていたので、地域では、頭良い方の宇和島東を受けて、合格しました」。
一方、スポーツで結果を出していたが、心の中には、やりたいことがあり、ずっと気持ちを温めていた。「幼稚園の時に行ったディズニーランドで見たパレードダンサーがかっこよくて。小学校の時から、ダンス・スクールに通いたかったんですけど、田舎すぎてなかったんです。親にも頼めないし。我慢していて。高校に入ったら、ダンスやろうと決めてました」。

デビュー戦からキックを得意にしていた

プロレスデビューは、中野たむ戦

最初に見て心が動いた伊藤薫vs中野たむ戦

アクトレスガールズのLIVEでもボーカルを担当した

ずっとやりたかったダンス

高校に入学すると、ダンス部に入ろうと決めていたのだが、見学に行ったダンス部が「コンテンポラリー系だったんです。ちょっと変わった先生が顧問。自由に表現しなさいというコンテンポラリー系にもいろんなものがあるじゃないですか。プリンセス系とか。でも部活を見に行ったときにやっていた課題が、蛙だったんです。これ、入りたくない。。。私が思っているダンス部と違うと思いました」。そんな時、先生から、「あなたはソフトテニス部ね」と言われ、「“蛙”よりいいかな」とテニス部に入部。実は顧問の先生が、中学の時から清水に目をつけていて、「誰と組むかも決めてある」と。3年生の先輩と組んで、市や県の大会に出て優勝もした。しかし、その先輩が卒業すると「私の役目は終わった」とテニス部をやめた。そして、ダンス部の顧問の先生が変わったタイミングでもあり「今だ!」とダンス部に入部した。学校の部活以外に、親からの許可も得て、ダンスレッスンにも通っていた。「コンテンポラリーのダンスには、全く興味がなくて。体を柔らくするとかの基礎はあるので、そういうものは手にしようとやっていたんですが、自分がやりたいのは、コンテンポラリーじゃない。HIP HOPとか、外で習ってるダンスの方が楽しくて。外でやる大会にはめっちゃ出てました。私の学科は部活に特化してる科だったので、普通科より一限短いんです、その一限の間は、体育館とかを自由に使えて。鏡も使いたい放題だったんです。この1時間は、自分のダンスができると、曲をかけて、ずっと一人で踊ってました。すると、1年生の子とかが教えてくださいと言ってきて。1時間だけ“ひかりさんレッスン”が始まって、HIP HOPをやってました」

バスガイドを経験

高校卒業時は、ダンスの専門学校に行きたいと思っていたが、先生や親の意見を聞き、就職することになった。「安易な理由でバスガイドを選びました」。当時、歌って踊れるという人になりたくて、憧れは、安室奈美恵や倖田來未。「バスガイドは働きながらも歌が歌える(笑)。そんなに楽ではなかったですけど1年ぐらいやりました」。京都の会社で、入寮が必須。朝5時に出て帰ってくるのは夜中。帰ってから3時間しか寝る時間がないということも、しょっちゅうあった。「明日、周る場所、例えば清水寺に行きます、金閣寺に行きます、その道順で喋らなきゃいけないことを覚えなきゃいけない。日によってコースも違うし。1年生だから、1から覚えないといけない。だから、明日のコースを確認して、資料を揃えて、読み直して覚え直して寝る。忙しい時期は、本当に寝れなかったです」。1年目は修学旅行を担当する決まりになっていて、一般客の対応はなかった。「生徒さんがいなくなったバスの中で、寝たいけど、寝たら、運転手さんに怒られるし。一応、働いてる時間帯。必死に寝るのを我慢して。昨日、寝たの1時間なのに。相当、しんどかったです。でも、謎にバスガイドだっていうブランドだけで生徒さんからはモテてました。ませてましたね。連絡先教えてみたいな感じで(笑)。生徒さんが別れるときに手紙くれたり、やりがいはすごくありました。もう少し、若い時代が長かったら、バスガイドをずっとやってたかもしれない。でも子供ながらに急いでましたね。時間ない、時間ないといつも思ってました。就職したのは、人生経験的にもよかったなと思います」。
そして、お金を貯めたら、東京に行こうと決めていて「学校の道も考えたんですけど、学費が高すぎて、一人で払うにはしんどすぎる。それよりも、東京に出ちゃおうと。東京で、舞台役者で活躍されてる先輩が助けてくれました。こういうところでライブやってるよ、と連れていってくれたり。その時に出てたダンスグループ(「剱神」)を見て、生意気ながら、その中だったらダンスで一番取れると思って。それで、社長さんに会いに行って、やらせてもらえませんかと、直談判しに行きました。そこで、歌とダンスとやらせてもらい、振り付け講師もやらせてもらうようになったんです」。この出会いのおかげで、振り付け講師の仕事は現在も継続している。「東京に来て一番最初のライブは、渋谷のライブハウスだったんですけど。その次に立ったところが、横浜BLITZ。2000人の前。赤坂とか。そこに毎月だった。その事務所の力ですけど。そこで、ボーカルさせてもらったのは、ありがたかったなと思います。最初の1、2年にしては、よかったと思いますね。グループには、今もいます。プロレスをやるようになって、そっちへの参加が難しくなっているんですが、名前だけ残しています」。

プロレスとの出会い

2016年、別のダンスボーカルグループに参加していた時に、初めて「プロレス」に接点ができた。アクトレスガールズのメンバーだった仁科鋭美(現名は仁泉鋭美)がMCを務めていて、会話するようになった。その時「鋭美さんから、アクトレスやりませんかとDMが来て。そこから、試合を見に行って。その時に、(中野)たむさんと伊藤薫さんの試合(2016.12.11)を見て、面白いと思ったんです。たむさんって、あの頃から、何か魅了する感じがあって。全力で、必死に頑張ってるたむさんが素敵だなと思いました。ダンス以外で、久々に心が動きました。プロレスって、心を動かせるものなんだと思って、ちょっとやってみようと興味が出てきました」。そこから練習に通い、デビューも決まった。そして、デビュー戦の相手は中野たむ(2017.3.5)。
「たむさんとやれるのは嬉しかったですね。記憶にあるのは、ハイキックとフィニッシュ。でも、これでデビューできたんだという実感は湧かなかったです。あの頃の記憶、全然残ってなくて。人より忘れやすいんですけど。ライブとは違うけど、人前という感覚は同じ。もともと舞台(芝居)は嫌いで、感情移入とか言われても、わからんし(笑)。誰々になってくださいと言われてもできない。自分でいられるのがいい。清水ひかりとして立てる場所だったから、頑張ろうと思えました。周りは、何故プロレス始めたの?と言うし、今でも言われます。 みんな、プロレスを見たことがあるようで、見たことがない。テレビで、プロレスラーが出てるのは見てるけど、試合を見たことがない。自分もそういう立場だったので。でも、今は、やめれない、試合をやりたくなっちゃう。もう中毒って言ってます(笑)」

SAKIの入団で自分の中で大きな変化があった

転機

デビューしてから、間もなく、プロレス入りのきっかけになった仁科鋭美、中野たむが立て続けに退団。「たむさんは違う道を行くんだなと泣いてましたが、でも、人前に出さないようにしようと思ってました」。この頃の記憶がない理由は、いろんなことを忘れようという意識が高かったことも起因しているのかもしれない。そんな時に、SAKIが入団した。
「アクトレスって、最初、(まなせ)ゆうなさんが教えていて、私が入った頃は、(本間)多恵さんとかも教えてくれたけど、プロレスをちゃんと教えてくれる人に出会ってなかったと思います。多恵さんもまだキャリア2年目で。団体ごとに教えていることは違うだろうけど。SAKIさんがやってきたプロレスが肌にあったというか、かっこいいと思ったんです。SAKIさんが言ってることも理解できたし、プロレスって、こういうことなんだなという、プロレスへの理解が増した。がむしゃらにやってるだけだったのが、考えるようになりました。もっとこうしたらいいのかなとか。こうしたら、清水ひかりとしてのプロレスが面白くなるのかなとか。プロレスを理解させてくれたおかげで、自分も理解しようとして、色々試すようになりました。練習内容も変わりました。実戦練習が増えて、技の練習のバリエーションも増えたし。SAKIさんはその人に合った技を考えるのが上手ですね。例えば、(櫻井)裕子にブレーンバスターとか。それを私に言ってもダメじゃないですか。ひかりはこういうのがいいんじゃないかと考えてくださる。それはカラーズを思ってですよね。根本的に練習内容が変わりました。プロレスが楽しいと思うようになったのは、SAKIさんがきてからですね。気づいたら楽しかったし。楽しくなってるなと自分でも気づく。認めてもらえていると、思った時が、自分の中で嬉しかった。もっとやりたいと思えるし。あと五番勝負はデカかったかな」。

清水ひかり五番勝負

2019年8月から『清水ひかり五番勝負』が始まった。SAKIが清水を成長させるためにcolor's大会で実施したもの。初戦の相手は、松本浩代、第2戦が高橋奈七永。キャリアも体格も圧倒的に差がある先輩である。しかし、2戦目を終えたところで欠場に入る。実は、それまでも試合中に肩が抜けて亜脱臼を繰り返しながら、試合をこなしていたのだ。筋肉をつけても脱臼癖は治らなかった。
「五番勝負を自分がやらせてもらえるんだというのもあったし。正直、color'sの誰がやってもおかしくなかったと思います。だからこそ、1個上に上がらないといけないと思いました。いつまでも、color'sの3番手みたいな言われ方もしていたし、だからと言って4番手、5番手、下の子の勢いもすごかったし、いつ抜かれてもおかしくない状況の中で、伸びろよと言われてるんだ。でも、それって、認めてもらっているのと同時に、今のお前じゃ足りないぞということだから。これをやり切らなきゃと思ってました。でも2戦目を終えて欠場。奈七永さんは受け止めてくれるタイプ、浩代さんは、甘くないぞという感じ。それが、よかったのかな。しっかり治さないと、この人たちには勝てないと思いましたね。こんな怪我を抱えてる状態でできる場所じゃないんだなと思いました。変な話、周りも、そんな人とは試合したくないじゃないですか。これは手術だなと思いました。欠場を明けての五番勝負再開は、一番良かったのかなと思います」。
ちょうど手術が決まった時にコロナ禍が起こり、ギリギリ手術ができた。そして、欠場期間がコロナ禍で興行も行われていない時期と重なった。「ある意味ラッキー。だから、欠場がそんなに長くないと思ってる人もいます」。復帰とタイミングを合わせ、五番勝負も再開。野崎渚、水波綾と続き、そして、最終戦は、師匠とも言えるSAKIとのタイトルマッチとなった。「五番勝負で得られたのは、粘り強さ。この前、世羅さんと藤田さんとタイトルマッチをした時も、粘り強さと言われて。あの二人への粘り強さって、きっと五番勝負をやってなかったら、無理。小さいからこそ、ぶっとばされやすいし、それに耐えうる精神力が必要。技で言ったら何やろう、蹴りの強さも、これじゃダメだなと思いました。奈七永さんの背中を蹴った時も、私の方が痛い。どういうこと? 体格差っていうのは、こういうことなんだなと思った。だって、“冷蔵庫”を蹴ってるんですもん。冷蔵庫とゴジラを蹴ってる、そりゃこっちの足がやられるわ。だから、威力に関しても極めなきゃと思いましたね。だからこそ、体格差を埋めるためにスピードも必要と思いました」(冷蔵庫=高橋、ゴジラ=松本のニックネームになっているワード)
「SAKIさんとのシングル。デカいかなあ。あれがメインにならなかったのも。団体最高峰であるべきベルトの試合がメインイベントではなくセミファイナルという現実。私が原因じゃん。私が足りない。自分に腹立ちました。団体としては、一番良いカードをメインにするのは当たり前で。あの時に、いろんなものがプツンとなりました。震い立たせられました」。
そして、五番勝負終了後、WAVEのタッグベルトにSAKIとのコンビで挑戦。王座奪取に成功した。
「五番勝負が終わって。ベルトも取れて。そこから怒涛な気がします。鳥肌立ちました。最初にベルトを巻いた時。私が?勝利した時はSAKIさんが勝ってくれたし。生まれたのはアクトレスだけど、自分の師匠はSAKIさんだと思っていて。五番勝負を終えてSAKIさんとベルトを取れたのは、すごい嬉しかったですね」。

五番勝負の第1戦の相手は松本浩代

五番勝負の第2戦の相手は高橋奈七永

新生COLOR’S

勢いに乗ってきた2021年、アクトレスガールズのプロレス廃業への動きの中で、清水も今後の進路を決断することになる。「アクトレスのプロレス廃業は、(手術から)復帰した瞬間は知りませんでした。残ることも、考えましたよ。自信はないから、プロレス業界に残るのは無理かなあと思ってました。他団体への所属という選択肢はなかった。プロレスをやるんだったら、SAKIさんの側がいいなと思ってました。SAKIさんが入ってきた時に、(安納)サオリさんとかに言ったんですよ。あんたら壁になってるよ、それが悪い壁になってる。越えれない壁って、いい壁もあれば、悪い壁もある、と。私の中では、確かに越えなければいけないんだろうと思っていたけど、越えれないんだろうなと思ってた。それをバッと言われた時に越えなきゃいけないんだと思いました。衝撃でしたね。今まで、絶対的4人というか。それを超えれる人はいなくて。実際に超えてる人が言っている。あっそっか、カッケーとなりました。それを超える人が自分でありたいと思いました。だから、SAKIさんについていこうと、みんなの前でも言ったし。私はSAKIさんはどうしますか?と、聞きました。SAKIさんのもとでプロレスをしたいと思っていたので一緒にやらせてくださいと言いました。プロレスをやっていきたいとは思ってるけど、フリーという立場は自信がない。他にも絶対そう思ってる子はいると思って声かけたのが、今のCOLOR'Sのメンバーです。長袖は着てたので秋ぐらいかな」
また、WAVEのベルトを持っていたことで、「フリーになったら頑張らなきゃといけないし、責任もある。ベルトも、そっちに行く背中を押してくれました。ベルトの存在は大きいですよね。今もそうですけど。WAVEさんのベルトを持てるとは思ってなかったし、GAMIさんにもベルト持って変わったなと言ってくださったのは嬉しかった」。

ベストマッチ

これまでのベストマッチ、記憶に残る試合は?という問いに「SAKIさんとのシングル。そして、今年、後楽園のメインをできたんです。CATCH THE WAVEの野崎さんとのシングル(2022.5.5)。五番勝負の相手だし。印象に残ってます。だから、CATCH THE WAVEは印象に残ってます。ベストバウト(対中森華子)にも選んでもらって。敢闘賞も、もう一人の候補が私だった聞いて。こんなに評価してもらったことがなかったので。私、勝ってないですもん。でも、評価してもらえた。嬉しかったですね。WAVEさんは感謝しきれない団体ですね。このベルトを守りたいし。だから、CMLLに持っていけたのは嬉しかったです。志田さんがAEWに持って行ったのと同じ。WAVEさんへの恩があるので。今年のCATCH THE WAVEは五番勝負と同じくらい大きいと思っています」

メキシコ遠征

2022年、メキシコCMLLへの遠征が実現した。19日間の滞在で11試合をこなすというハードスケジュール。本間多恵、駿河メイとともに日本軍として闘い、アレナ・メヒコのリングにも立った。「めっちゃ嬉しかった。遠征者を決めるトーナメントで多恵さんに負けて、行けないとなって。また行けない。逃した。前にも、行けるかもと言われてたけど行けなかった。今回は推薦枠で行けることになったので、ある意味、夢が叶えられる。今回は国代表として来てるという扱い。向こうの選手は自信の持ち方がすごい。見せ方もすごい。戦っていて伝わってくるものもあるし。見せ方もかっこいい。何を言ってるか、わからないけど、それでも伝わってくるものがある。そんなすごい人と戦えてるんだと、自信になりました。私は場外プランチャの日本で一番を目指そうとやってることもあって意識してたんですが。精度もレベルも違う。全員飛ぶし、ただ飛ぶだけじゃない。3捻りとか、めっちゃ回ってる。場外にムーンサルトとか。メキシコはそういうものがすごいと勉強して行ったけど、実際に見てみるとこんなに違う。レベルが高かったですね。自分、このレベルじゃダメだ。日本に帰ったら、めっちゃ練習しようと思いました。そういう気持ちになって戻ってこれたのは大きいですね」。

プロフィール
11993年4月22日、愛媛県宇和島市出身。
身長:157cm
デビュー:2017年3月5日 対中野たむ戦
得意技:落雷、SKB、キューティースペシャル、レッグラリアット
タイトル歴:DUAL SHOCK WAVE WAVE認定タッグ(第26代、第30代、パートナー=SAKI)、インターナショナルリボンタッグ(第55代、パートナー=SAKI)

怪我からの復帰後に再開された五番勝負第3戦

五番勝負第4戦は水波綾戦

五番勝負最終戦は“師匠”SAKIが相手を務めた

WAVEでベルト奪取を果たした瞬間、SAKIに寄り添った

SAKIとのコンビで初戴冠

2022年、アイスリボンのベルトも獲得

メキシコといえば、標高も高く、食事も合わない日本人は多い。メキシコに修行に行ったレスラーたちは、痩せて帰ってくることも多かった。「食事は、どこに行ってもタコスを食べてました。あと遠征経験のある多恵さんが一緒だったのは大きいです。最初の1週間はハイ状態。それを過ぎると、ちょっと現実感が出てきて、やっぱ大変だなと。しっかり食べれていないし、酸素が薄いので。しんどくなってきた時に、多恵さんがいて良かったと思いました。あと1万人以上の観客の前で試合をできたのは大きい。反応が全然違います。やった瞬間の反応も日本より早くて。ちょっと悪いことしたらブーイング。レスポンスが早い。勝てた瞬間もワーという大歓声。勝ちが、日本人であろうと、他の国の人であろうと、勝った瞬間の盛り上がりはすごかった。お客さんのおかげで、こっちも楽しくなっちゃって。お客さんとのやりとりが楽しかった。日本じゃあり得ない。地響きがすごかくて、リングが、みんなの声で、ブルブル震えるんです。揺れる感じは、初めての感覚。フットスタンプで二人に勝ってるんですけど、決めた瞬間の地響きはすごかった。リングが揺れてる感覚をみんなが感じてるかはわからないけど。実際に、肌に声がくる。面白かったですね」。
今後については「怪我は絶対できないと思ってます。今、絶好調とみんなから見えてるといいなと思います。今年は、ベルトを持ってる。この腰に3回きてる。ギャラパンで取れたのが嬉しいですけど、次はシングル。行動する気でいます。今はギャラパンの清水ひかり、カラーズの清水ひかり。清水ひかりをもっと広めたいと思っています」

新コスチュームを持参しポーズ(写真提供:清水ひかり)

CMLLアレナ・メヒコで行われた「死者の日特別興行」ではペイントして出場(写真提供:清水ひかり)

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