櫻井裕子
Yuko Sakurai
Yuko Sakurai
INTERVIEW
成長スピードはスローだったが、
キャリア4年で、タイトル戦線にたどりついた
3人兄弟の真ん中で、兄と妹に挟まれ、適度に放っておかれながら育ったという。兄とはゲームで一緒に遊ぶような仲だった。「お兄ちゃんが、野球とかサッカーとかしない男の子だったんですよ。ゲームばかりしてました」。アニメを見たり、ゲームをする毎日、習い事は、ピアノと水泳を幼稚園からしていたが、小3の時、塾に行くことになってやめた。
小学校では、音楽部と放送部に入っていた。「運動会とかで、頑張ってください!と場内放送で言う、あれがしたかったんです。お昼の給食の放送とか、1日の終わりの時に流す放送もやってましたね。そういうのが好きだったかもしれない」と振り返る。中学では、吹奏楽部に入部。「先生が楽器の割り振りをする感じだったので、有無を言わさずトローンボーンでした。一周回って、めっちゃかっこいいやんと思ってめっちゃ練習しました」。学校では、特に目立つ子ではなかったが、「田舎だったので、人数も少なくて、みんなと話すし、名前なんかを知らない子はいませんでしたね」。高校は、家から一番近い学校。兄も通っていたところで、部活も、兄と同じ生物部。「亀とメダカの餌やり。あとは、先生が途中から買ってきたウーパールーパーしかいない。事実上、帰宅部でした」。
高校卒業時の進路相談では、「とりあえず大学は出ておいた方が良いとなって、親が持ってきた候補の中から選びました」。櫻井が住んでいた地域では、大学進学や就職で関西地方に出ていく人が多かった。「とりあえず、関西か東京に出たいというのはあったんですが、いきなり東京に出る勇気はなかった」。高校の段階ではやりたいことはなかったという。それでも「ゲームしてアニメ見て、こうなってしまった(笑)。田舎はやってるものは少ないので、ポケモンぐらい。でも1日中アニメを放映しているCATVを入れていたので、古いやつだったけど、めちゃめちゃ見てました」。
「大学は神戸の女子大だったんですが、大学から人生始まった気がします。アニメ系の学科があるから楽そう(笑)と思って。大学で仲良くなった子達は実家暮らしが多かったんですが、私は一人暮らし。駅から一番近い場所に住んでいたので、溜まり場になりました。そこで、私は、見つけちゃったんですよ。大学の中でもゲーム好きな子を。あの頃のブームはモンハン(モンスターハンター)でした。サークルはテニス・サークル。隣の共学の大学のサークルに仲のいい友達と入ってました。それまで運動をしてこなかったので、あまり馴染めなかったけど」。大学の学科は文学部メディア表現学科。映像やアニメの制作や社会の中で位置付けなどを学んだ。
特にやりたいこともなく過ごした幼少期
高校卒業後はアパレル会社に就職し、専門学校に通うための準備をした。(写真提供=櫻井裕子)
大学で人生が始まる?
大学に入った頃、ニコニコ動画が爆発的に広がった。「親にレポートを書くために買ってもらったノートパソコンで、配信してました。配信者だったんです。雑談とか、歌ったりとか、ゲーム配信もしてました。生放送で何週間か経ったら消えるやつ。家でやることがなかったら、ニコ動見るというスタイルで。ちょうどボーカロイドが流行ってた時期。カラオケに行ったら歌うというのもあったし。時間潰しのためにやってるのと時間潰しのために見る。あの頃は、そういう人がいっぱいいたので。その時、流行ってた物を時事ネタに沿ってやってました」。実は、小学生の時から、チャットで周りの人と繋がるのが好きで、「知り合った人と文通してたり」して、発信することや人と繋がることは好きだった。
その頃、声優の専門学校が神戸にできた。アニメが好きで、高校の時は、声優のイベントにも行っていた。なんとなく「声優になりたい」という思いは持っていたのだ。「自分でバイトした自分のお金で、そこに通いました。声優さんになりたかったから。でも履歴書を送っても、通るわけないじゃないですか。そこで、どうしよう?となると、レッスンに行く子が多いと思います。好きな声優さんを見て、どこを出てるとかを調べて。声優事務所と繋がってるところに行ったりします。とはいえ、すぐに声優になれるとは思わなかったので、就職しました」。就職先はアパレルの会社、SHOPで販売員をしていた。「社会人になってからも、毎週、学校には行ってたこともあって。こんなに続けるっていうことは、ほんとにやりたいことなんだと思いました。だったら、そっちを軸にした生活をしようと。ダメだったら、戻ればいいやと思って東京に来ました。東京でも2年間かな、別の専門学校に行きました。バイトしながら。正社員ではないんですけど。体は丈夫なので!」
その学校は、卒業時に複数の芸能事務所がスカウトに来るところ。幸いにも、声がかかり事務所に所属することになった。
声優への道に近づいたものの
よくある話ではあるが、事務所に入ったからといって仕事があるわけではない。事務所が主催していた舞台にも出演はしていたが、「押されてないなあ」と感じ、レッスンに行く回数も徐々に減っていった。「本当は、レッスンに行って、がんばってます!と言うのが正解だとは思うんですが」。特に仕事もない中で過ごしていた時、事務所の社長の知り合いが、アクトレスガールズの舞台『カウント2.9』のスタッフをやっていて、アクトレスの代表と繋がった。そして、メンバーに声優はいないから「誰か、いい子いない?」と言われたという。その頃、事務所がプッシュしていたのが、後にアクトレスガールズのメンバーになる入江彩乃。「年明けに彩乃以外にいないのか。もう一人選んでいいよ、と選ばれたのが私だった」
プロレスに対する抵抗はなかったかとの問いに「先に練習を見に行ったのかな。で1月か2月の興行を見たんですよね。なつみさんとか、初期メンが輝いていた2018年。見てすごいなと思いました。私がやめると言ったら、彩乃もやめると言うだろうし、できるところまでは頑張ってみようと思いました。初っ端に見たのがアクトレスだったから、なんとかやっていけるかなと思ったのかもしれない。エンターテインメントとしてプロレスを見た時にこういうものあるんだと。無理だなあとかは思わなかったですね。何もしてないよりも、行ってファンを増やす。もし、デビューできればファンは増えるだろう。自分を知ってもらえるのなら、と行くことにしました」。
プロレス・デビュー戦は後楽園ホールでの4WAYマッチ。
思わぬところからプロレスの道へ
「あの頃は練習生が多くて、一緒に頑張る子もいました。先輩もいっぱいいたし。2017年デビューの(関口)翔さんとか、(高瀬)みゆきさんとかひめかさんが教えてくれるゾーンだった気がします。一緒に頑張ろうねという仲間もいるし、もっとこうしたらいいよと言ってくれる先輩もいた。一人だったら、やめてたかもしれない」と振り返る。
デビュー戦は、後楽園ホールでの堀田祐美子、松井珠紗、林亜佑美との4WAYマッチ。「堀田さんには、絶対に勝てないし、何をやっても効かない。新人3人揃ってるから何とかなるかも。レジェンドの堀田さんが相手をしてくれる。ここでデビューできなかったら終わる。いろんな想いが巡りました」
デビューはしたものの、伸び悩みが見えていて「どうすればいいのかも、わからなかった。モヤモヤとも違う。自分ができないしな、という思いが強くて、何を言われても、すいません。すいません、と言うと、また怒られる。謝るぐらいなら練習しなさいと。彩乃がいたから続けてたんだと思います。color'sがあったから、月1回試合に出れてた。それがなかったら出れてないかもしれない。あの頃のこと、何かわからないけど、とにかく大変だったなということしか覚えてないんです」
ところが、プロレスが楽しいと思える出来事が起こった。2019年10月6日、埼玉・障がい者祭でアクトレスの大会が開催された時。当日は生憎の雨模様。リングは屋外、屋根もない状態。中止か、ダンスだけ披露して終わるかと言う状況。幸いにも、スタート時間の直前に天候が回復。櫻井のカードは、入江彩乃、SAKIとの3WAYマッチだった。「この時、試合で場外とかにも行ったんです。場外に放り出されて、周りの観客の視線が自分にきて。その時、お客さんの顔をしっかり見れたのがデカイかもしれない。自分でいっぱいいっぱいで、どうしようどうしようという状態だったのが、お客さんの表情が見れて、喜んでくれている。こうすれば良かったと思うところまでいってなかった状態から、この先輩がいるから、どうにかなると思って、楽になったのかもしれません」
そして、プロレスが楽しくなってきた矢先、コロナが襲ってきた。「コロナの間は、外には出ずにずっと家にいました。家トレしかできない。でも、あのときもゲームしてました(笑)」。緊急事態宣言も明けて、興行も徐々に再開された頃、color’s提供試合という形で、HEAT UPの大会に出るようになった。「HEAT UPに出始めたころからだと思いますね。成長してきたのは」。color’sでは、こんな技が合うんじゃないかと勧められることがあり、SAKIからブレーンバスターを授けられた。投げた後、ブリッジで固めるのもSAKIのアドバイスだという。また、アイスリボンの若手大会P’s Partyにも参戦するようになる。「HEAT UPに出て、ピースパで若手とやってたのが大きかったです。ベテランの人と当たっても、話したこともないし。どうすればいいのかな、失敗したらどうしようという思いしかなかったです。ピースパでは、一緒に練習したり、ちゃんこも用意されていたりで、話すことも多くなっていきました」
SAKIから伝授されたブレーンバスター。
投げた後のブリッジもSAKIのアイディア。
新生COLOR’Sとして
そして2021年、アクトレスガールズのプロレス廃業。「周りはなんで言ってくれなかったんだろう。知ったのは4月の後楽園大会のちょっと前ぐらい。早い子は12月ぐらいから知ってたみたいで。今年で終わるからと言われ、自分はそっちではしないだろうなとは思ってました。アクトリングにも出てなかったし。でも、最後の12月までは、続けようと思ってました」。今後を考えていた時、「すぐに試合をするかどうかは別にしても、ゆっくり考えた方がいいよと、SAKIさんには言われてました」。そして、櫻井は既存団体に所属するでもなく、SAKIと行動を共にすることを決意。実は、アクトレスガールズのプロレス廃業とは関係なく、「SAKIさんが、なんとなくやめちゃおうかなと呟いた時に、SAKIさんがアクトレスやめて出ていく時は、私も連れてってくださいと言った記憶があります」
櫻井がSAKIと行動を共にするのは、必然の流れだった。
年が明けてCOLOR’Sがスタートした時は、「不安より期待が大きかったですね。絶対にアクトレスより、自分の方が売れてやろうと思ってました!」。実際に、試合数も増え手応えも感じている。9月には、PURE-JのPOP選手権に、10月には、SEAdLINNNGのSEAdLINNNG BEYOND THE SEA TAG王座にSAKIとコンビを組んで挑戦。「去年までだったら、タイトルマッチの話があっても、やりますと言わなかったと思います。成長の理由ですか?何だろう。気持ちが一番大きい気がします」
自分に足りないものは?という質問に対して「今、自身の課題について話をしたら、病むんで」。「最近、どうしたらいいか、わからない。こういう人だよねと説明できることがないのが、課題かな。〇〇な選手の〇〇がない。終わりは決めてないけど、ベルトも取りたいし。声優になりたいと思ったきっかけは、アニメを見て元気になったりとか、その人が出るイベントに行くから、日々の糧になった。そういう人になれたらいいな。それが声優じゃなくてプロレスラーでも。今度、裕子ちゃんの試合を見に行くのが楽しみという人がいっぱいになったらいいですね。」
プロレスが楽しいと思えた試合。
埼玉・障がい者祭での3WAYマッチ。