網倉理奈
Rina Amikura
Rina Amikura
INTERVIEW
破天荒系から引きこもり
幼少の頃は、好奇心旺盛で、知らない人に突然声をかけたりするタイプだったという。それが、いつの間にか引っ込み思案になっていった。漫画やアニメが好きだったことを、“イケイケ・グループ”の女子がいじってきて、いじめのような扱いが始まったことがその理由。「インフルエンザでも食欲だけはなくならない私が、生まれて初めてご飯が食べられなくなって。学校も休みがち、早退も多くなった。でも親には言えなくて、親にはダイエットしてるんだと言って」。その頃、ネットで流行り出したニコニコ動画に没頭。
運動は嫌いではなく「地域のクラブ活動で、バレーボールとかして、中学の時はフェンシングをしてました。仲良かった子がやってたので」。地元が、フェンシングで地域振興していたこともあり、人と違ったことをやりたいと、弟と一緒に始めた。「人間関係も、ゼロから始まった感じなので、楽しかったですね。いいストレス発散にはなってました」。元々習い事として、「小1からピアノをやってたりして。ピアノは自分でやりたいと言って始めました。習い事は、習字、そろばんとか一通りやって唯一続いたのがピアノでした。自分でやりたいと言ったから続いたのかな。運動はやってこなかったので。クラブ活動では無料でできるし。何か選んだらと言われてやってました。たまにバドミントンやったり。子どもに不自由させたくないという親ではありましたね。自分でやりたいと言ったことは大体やらせてもらえて、できなかったことはなかったし。ピアノは高校卒業するまで12年間やりましたね」。
高校は、体験入学で回っていた時に出会った合唱部の先輩の歌に感動して「その学校を目指すことにしました。結構上の方の学校で、勉強は苦手だったんですけど、そこに行くためにめっちゃ勉強して、何とか受かることができました!」。フェンシングは、高校になると「本格的な選手育成がメインに。最初よりは強くはなってたんですけど負けて毎回泣いていて。そんなメンタルでできるのかと。たくさん話し合ってやめました」。
いろいろな習い事をして過ごした幼少期(写真提供=網倉理奈)
最初の夢はハクのお嫁さん
一通り、習い事や運動などを経験してきた中で「一番最初の将来の目標は、千と千尋の神隠しのハクさまのお嫁さんになること。でもハク様は次元を超えないと会えないことを知って諦めました。初恋の初失恋ですね…(笑)その次が、宇宙飛行士。地球の歴史が好きで、図鑑とかも読んでいるうちに、宇宙に行きたい、宇宙飛行士になりたいと思うようになって。ずっと言ってたんですけど。持病とかもあって無理じゃん…となって。将来への漠然とした不安といじめにあっていたその時期にアニメと出会った。そこで声優になりたいという気持ちが芽生えました。お芝居にも興味を持って。最終的には、声優になるぞと思って上京したんです」。
引きこもりがちだった生活も高校で一新。「高校は毎日楽しい、サイコーでした。憧れの先輩と一緒に歌えるし。部活も人数はそんなに多くなかったんですが、めっちゃ楽しかったです。部室がちょっと離れたところにあるんですよ。そこで、みんなでお菓子食べて話して、毎日歌って」。その頃、ハマったものがあった。「ビジュアル系バンドが好きで、SuGっていうバンドが好きでした。今は活動してないんですが。バンド名が"悪友"というスラングらしいんですけど。そんな尖ったところが始動した頃から好きで。私の青春とバイト代(内緒で…笑)を全てSuGに捧げました。ライブも東京とか名古屋とかにも行けるところは全部行ってました。親は、東京には親戚もいるし、自分でお金貯めてるんだったら好きにしなさいという感じでした。長野からは一人で行って、現地で友達と会う。しばらくしたら、地元にも好きな子がいることがわかって仲間ができました。結局、そのアーティストに友達関係も助けてもらった、じゃないですけど。楽しくて。辛い時沢山助けてもらった大好きなバンドだから、プロレスデビューするとなった時の入場曲もSuGの曲(『ときどきすてきなこのせかい』)にしました」
どうしてもやりたかったこと
高校卒業時、進路の話になった時、親と揉めた。声優になりたいという夢はあったが、親には話していなかった。「今まで、やりたいと言ったら何だかんだでやれていたので、ちょっと子供的な知恵がはたらいて、愚図ってればできるだろうという考えも正直ありました。」、親は、将来何かあったときのためにも、大学に行ってから好きなことをすればいいという考え。「でも自分は、芸術系に行きたいから、大学に行くという選択肢はなくて。高校卒業してから飛び込むか、専門学校的なところに行くか。どうしても、やりたいから東京に行かしてくれ」という考え。
先生、親との三者面談の時に、「どうせ行けないんだったらいいです。この面談も意味ないですから」と不貞腐れていたら、先生から今までで1番怒鳴られた。「あのな、網倉。お前もっと親を大事にしろよ。これまで育ててもらって高校まで行かせてもらった親に、どんな態度取ってるんだ。本当にやりたいことがあるならちゃんと言ってみろよ」と親に話すきっかけをくれた。担任の先生は、声優になりたいという夢のことをどこからか知っていて、高校創立100周年のドキュメント映画を撮る時にも、「網倉、こういうのやりたいんだろ?勝手にだけど応募しといたから。」と、ナレーション役として推薦してくれていたのだ。結局、長いバトルの末に、間をとって短大の資格も得られる専門学校に進学、一人暮らしも心配だからと寮に住むことになった。
夢のために上京したものの
進学先は、芝居や映像を制作したり、演じたりする勉強ができるエンターテンメントの総合専門学校。3年間、学んだ。「“自分はできるできる”と思うようにしないとやろうともしないので。そのプライドをみんなの前でへし折られた時に、一番燃えるんです。落ち込んだ後の反動が一番のエネルギーです。アルバイトとか学校生活でも挫折はありました。自分が良い、正しいと思っていたものが、違うとか評価されないとか。“あなたの意見は違う、もっと視野を広げなさい”とか。本当にいい体験になりました。」。卒業後は、「一応、事務所に入りました。養成所にまた入る感じで、仕事はあるかもよという感じ。ちゃんとした良い事務所でした、レッスンも楽しかったし。でもお金が払えなくなっちゃたんです。アルバイトしても間に合わなくなって。で、泣く泣くやめました。1年ぐらい通ったかな」。この時、ここでやれないんだったら、今後もやれないだろう、潮時かと思っていた。
そんなタイミングで、「たまたま専門学校でお世話になっていた先生から連絡があって、演出助手が足りないんだけど、どう?」と誘いがあった。「演劇で仕事ができるのならやろうと飛び込んだんです。先生のもとについて舞台の演出助手。ダメ出しや役者の動きを全てメモしたり、稽古の段取りをしたり。劇団ではなくプロデューサーと演出家が組んでのプロデュース公演。お給料もちゃんと頂きました。前よりは生活もできるようになりました。2年弱ぐらいかな。欠員が出た時は、演出助手と出演と両方やってた時期もありました。そこから、演出助手をやるという条件でキャストに入れてもらえるようになって。自分は、やっぱり夢だったので出演が楽しかったです。演出助手は初めてのことで知らないことも多かったし、沢山怒られたし…正直、当時はとても大変でした。もう嫌だと思ったこともあります。でも今は、その経験はすごく役立ってるな、ありがたいなと思います。周りへの気遣いとか、そういう感覚を持つ大切さを沢山学ばせて頂きました。その頃には、声優にこだわることはやめました。演劇に関わりたいという思いが強くなって、それだけで生活できるようになろうと思ってました」
アクトレス初の後楽園ホール大会で。
網倉のコスチュームを身に纏い入場した五十嵐乃愛。
プロレスとの出会い
舞台の演出助手や役者をこなしていく中で、運命的な出会いがあった。2017年に上演されたE-dess Projectの『王国』。そこで、当時、アクトレスガールとしてプロレス活動をしていたなつみ(=当時、現在の名前はなつぽい)と出会う。「プロデューサーの人に”もしいい人がいたら紹介して、という話が出てるんだけど。この2年間、沢山スタッフもやってくれていたから、そろそろ自分のこれからのこと考えてもいいんじゃない?どの道を選んでも、俺は応援する。”と言われて。それで、なつみさんに話を聞いたりとか、練習を見学に行ったりして。ちょっとやってみようかなと思っていたら、いつの間にか練習生になってました(笑)」。プロレスは、見たこともなかったし、ルールも知らなかった。「練習の見学に初めて行った時は、いろんな年齢の人がいる中で、びっくりするぐらい飛び跳ねていて、正直、感動したんですけど、待って自分にはできなくない?という感想でした。ちょっと練習に参加してみようとなっても、前転はおろか倒立もできない。大丈夫かな、と自分にできる自信はなかったです」。ただ、この頃は練習生も多く、同時期に練習生になったメンバー、ひめか(現スターダム所属)、谷もも(現PURE-J所属)などの同期の存在が大きかったという。「得意じゃないことはすぐできないんですよ。でも、コツとかをみんなで共有して。励まし合って。だから、やめなかったんだと思います。あと、怪我したんですよね。初っ端。コーナーワークで。デビュー前と直後。練習に参加して何回目かのときに膝を怪我して。気持ちはゼロぐらいに落ち込んじゃったんです。もともと、2017年12月24日にデビューするか。となっていたんですが、結局治療もリハビリも間に合わなくて、5月に延期。みんなが試合してる間、止まってはダメだ、試合を見なきゃとセコンドには積極的に行っていました」。
怪我に苦しんだが仲間がいたから頑張れた
2018年5月、苦しんだ末にデビュー戦にこじつけた。「デビュー戦、嬉しい気持ちは勿論あったんですけど、また怪我したらどうしようという不安がありました。自分が怪我するならまだいい、でも相手を怪我させちゃうんじゃないかとか。デビュー戦の相手は、ずっとお世話になっていた先輩(関口翔)。人生で一番緊張してたと思う。もともと運動してたわけでもないし、ひょんなことからプロレスと出会って、そんな私がデビューしていいのかなという気持ちもあったし。翔さんが“自分が相手できて嬉しいよ”と言ってくださった気持ちを裏切らないようにとか。いろんなことがぐるぐるして。そうして、色々考えながら当日、描いて行った眉毛が人生で一番濃かった。無心で描いてたら濃くなりました(笑)」。
お世話になったプロデューサーや友達には報告していたが、親にプロレスをやるとはちゃんと言っていなかった。「なんか活動してるなというのはバレてたんですけど。また舞台の活動だと思ってたんだと思います。“色々言いたいことはあると思うけど、両国にきてください”と言ったら、親戚一同で来てくれて。終わってからは会えなかったんですけど、プレゼントで『怪我なく頑張ってください、おめでとう。』という母の字と差し入れがきて。それ見てめっちゃ泣きました」。デビュー戦が終わった日は、逆に興奮して眠れなかったという。
しかし、せっかくデビューしたものの、すぐにまた怪我をしてしまった。「大切な同期の谷ももちゃん、未依ちゃんとの3WAYが決まってたんですけど。練習生の時に怪我したところにトドメをさしてしまった感じで。練習中に切れて壊れてしまいました。状態の酷さを言うと欠場期間も長くなっちゃって戻れないと思ったから、なんとか練習には参加してできる事をやっていたけど、本当にできないことが多くて、リングの下で静かにまた挫折がありました。今後どうするかを先輩に相談した時に、“今後も続けていくなら、意を決して手術した方がいいよ”という意見もあって。同じ怪我をしたことがある先輩の(本間)多恵さんが、すごく気にしてくれて、装具はこうだとか。細かいアドバスをしてくださったので、不安なく手術できたんですけど。復帰まで1年ぐらいかかりました。戻った時は、みんな別人のように動いていて。沢山試合もしていて…でも自分は時が止まっていたままだった」。
欠場中に、アクトレス初の後楽園大会があった(2018年11月15日)。網倉自身はまだ松葉杖をつく状態。この時、怪我で欠場中だった五十嵐乃愛の復帰戦が組まれていたが、五十嵐が網倉のコスチュームを着て登場するという演出。「乃愛さんも怪我してた時があって、すれ違いが多くて、そもそもあまり一緒にプロレスが出来ていなかったんですけど。見た目も似てるねと言われていて、今の私の得意技セントーンを使った方がいいと最初に言ってくれたのもあって、勝手に双子のお姉ちゃんだと思ってました。乃愛さんの復帰戦、しかも初めての後楽園。そんな大事な試合で、後輩のコスチュームを着ようとしてくださったこと、尊敬しかなかったです。入場の時に、おいでおいでと言われて、一緒にアピールして。これで、みんな後楽園に出れるねと言われて号泣。自分以外の人のことを考えられる人がアクトレスには多くて。今までの人生でもそうですけど、先生運、先輩運、友達運に恵まれてるなと思う。プロレスの世界に入ってもそうだったので。一生忘れないと思います。あの出来事。その先輩たち、同期たちと頑張っていこうって思えたのが、初めての後楽園でした」。
復帰の準備をしていた頃は、「なんでもっと早く手術しなかったんだろうと思いました。手術したら治るということは、頭ではわかっていたんですけど…。踏み切れなかった自分がいました。同じ経験をした(角田)奈緒さんや多恵さんにもお世話になりました。一人じゃない。仲間として練習できたのが、復帰まで頑張れた理由。あと欠場中にcolor’sができたのもありますね(2019年1月20日)」
その頃、忘れられないことがあった。「“復帰した頃にはあーみんの居場所はないぞ。みんな成長してるし。だからせめて新しいcolor'sに行ったら。”と代表から言われました。必死に復帰を目指している人間にとっては、かなり心を抉る言葉でした…」。そこからcolor’sリーダーのSAKIの練習、color’s練習に参加するようになった。
プロレスデビュー戦は、関口翔が相手を務めた。
他団体参戦は、長与千種率いるマーベラスで実現。
ターニングポイント
「SAKIさんが教えてくださることが、自分の中では、新しすぎて。例えば、外(他団体)に出た時にどうすればいいかなど、練習だけじゃないこととか、先輩に対しての礼儀とか。SAKIさんが体験したこと、苦労してきたこと、込み込みで、体で教えてくれるというか。真剣に私を見て教えてくださることが、嬉しかった。color’s練習がモチベーションになってました。SAKIさんは、一人ひとりをちゃんと認識して見てくれる。個人的に先輩が気にかけてくださることはあったんですけど、団体としては、そういうのがなかったんです。どうしても目立つ人に目がいきがち。まあ、それは当たり前のことなのかもしれないですがね。当時、欠場中で“陰”の存在だった私にも、こうした方がいいよとか、親身になって言ってくださる。こういう方向が合ってるとか。練習は、こういう仕方をしたほうがいいとか。だから、カラーズのリングで復帰したい!と思ってました」。そして迎えた復帰戦(2019年10月20日)。カードは、未依&網倉&ひめか対茉莉&SAKI&水森由菜。「それから、欠場してた間の時間を取りもどそうという思いで、がむしゃらにやってたつもりだったんですけど。試合では、厳しめのダメ出しをいただくことが、いっぱいあって」。頑張ってはいたものの、自分でもどうして良いかわからないことも多かったという。
そんな時、後に自分自身にとってのターニングポイントとなる試合が組まれた。「(まなせ)ゆうなさんとのシングル(2020年3月1日)。ゆうなさんは、プロレスとは関係なく、もともと仲良しだったんです。練習生になりたての頃、たまたまお友達とご飯を食べていた時に合流した綺麗なグラマラスなお姉さんが、まなせさん。そこから仲良くなって、プロレスデビューするんですと言ったら、えっ?となって、“古巣だ。頑張ってね”と言ってくださって。プロレスと出会う前から知ってる人とシングルをするという経験をさせてもらいました。color’sだから叶えられたカード。それが人生の転機となる試合。ターニングポイントになりました」。試合後、SAKIからの厳しいダメ出しがあり、そこからSAKIと二人の自主練が始まった。「SAKIさんとのメニューが自分に馴染んだというか、毎日のルーティンになるぐらいのことになったんです。最初は二人だったのが、徐々に、人数も増えてきて、コロナ禍で練習が出来なくなるくらいまでの期間やってました。そこで、自分の中でプロレスに対する意識とか、こういう選手になりたいとか、怪我との向き合い方とか、今までモヤモヤしてたり不確定だったプロレスへの熱意とかが固まって、確かなものになりました。自分は膝の怪我をした経験がある。今団体にいる選手よりは体が大きい。じゃあ、こういうところを磨こう。デビューして2年ぐらいで、そういうメンタルにやっとなれたんです。それまでは、がむしゃらにやることだけだったけど、徐々に考えられるようになっていきました」。こんなこともあった。コロナの緊急事態宣言明けに練習していた時、ロープワークをしていたら「別人かと思って感動した。人が違うよ」と清水ひかりから言われた。「それぐらい変われたんだなという達成感がありました。コロナ明け一発目の試合も、リング上の景色が違う。自分が練習してきたことを生かして、考えながら動くことができるようになりました。そういう変化を体験できたのは、本当によかった。まなせさんとの試合がきっかけとなって。練習して。ただ頑張るだけじゃなくて、これをこうしようとか、目的がある練習が出来たので、今があると思ってます。この体験ができてよかったなと思っています」
今では、すっかり定着した得意技の「ワープレス」は「2戦目で、(高瀬)みゆきさんから、とにかく声を出すことが大事だよ。と言われたのが始まりで、今も続いています。あーみんは体が大きいからボディプレスやったら。声が大きいから、試しにワーと言ったらと。今では、ワープレスいいね、と言ってくださる先輩やお客様も多くなっていて、続けてよかったなと思います」
他団体参戦の経験
当時のアクトレスガールズは、いろんな団体に参戦したり、提供試合を出していた。しかし他団体に出た選手の成長は早かったが、団体内に留まる選手は成長スピードが遅いというのが現実だった。
「初めての参戦はマーベラスさん。その後、ディアナさんに定期的に呼んで頂けるようになりました。マーベラスの彩羽匠さんがたまたま試合を見てくださって。元気があっていいね、今度是非、うちにも。と言ってくださったのが他団体初参戦のきっかけでした。当時、代表からは「無理っぽい。できない子」という見られ方をしていたと思います。実際できることも少なかったし。エリートでもなかったし。欠場前、初めて他団体からオファーが来たときも“断っておいた”と。そんなこともあったけれど、SAKIさんとの練習があったから、私自身が少しずつ変化して他団体さんにも参戦させて頂けるようになったんだな、と思っています」。その後、キャラメルボックスの成井豊が書いた作品を使った舞台出演の時(公演はコロナで中止)、「その登場人物の名前が全部プロレスラーの名前なんです。自分は"イノウエキョウコ"役でした。ストーリーはプロレスとは関係ないんですが」。舞台は横浜で開催予定だったので、お世話になっているBAR045へ挨拶にいった時に、たまたま、ディアナ(井上京子が主宰する団体)のスタッフがいた。「今、井上京子(さん)役をやってるんです」と話すと「えー?他団体、どこに出てるんですか?」という話からオファーがかかり、初めてのディアナ参戦が井上京子とのシングルだった。「そこから、ディアナさんに呼んで頂けるようになりました。アクトレス卒業後もディアナさんにかなりお世話になっています」。
他団体で学んだ、見たものはレベルが違うと感じた。「そもそも先輩方の歴が、まるで違う。同期とか後輩の人が、みんな凄すぎて。セコンドの動きも違う。外の世界を見ないのは、こんな罪なことなんだな、見れてよかった。良いところを持ち帰って、アクトの中で課題になってることがあったら解決できるなとか思いました」。
COLOR’S始動
そして、2021年、アクトレスは「プロレス廃業」に動き出す。2021年年末に公式発表されたが、当然、選手達には、事前に告げられていた。プロレスを廃業してアクトレスガールズ として活動するか、アクトレスを去ってプロレスラーとして活動を継続するか、各自に判断が迫られた。「これから先どうしようという不安。フリーになれると思ってなかったので。どこかの団体に行くのかな?プロレスを辞めようという選択肢はなかったです。自分の道を変えるためには、思い切って卒業した方がいいのかなとは思ってました。ありがたいことに所属のお誘いもあったんですけど、今まで団体に所属していて、団体の一員で陰になってたところがあったので、また、同じになるかもしれないという不安もあったんです。結果、SAKIさんについていきたいです!とお願いするまで、かなり悩みました」。
年が明けてCOLOR’Sが始動。試合数も目に見えるスピードで増えていった。「去年1年の試合数が半年で超えた。月2~3試合だったのが、多い時で15~16試合になった。数が証明してますね。こんなに必要としてくれている現場がある。自分って、そういう風になれてるんだという喜びがあります。1回出て、次も出てくださいと言ってくださる団体さんもある。自分がいていいんだという喜び。体のケアの大変さもあるけど、その喜びが大きい。必要とされるっていいな。いてもいなくてもいいのとは違う!」。
2022年のCOLOR’S活動中、アイスリボンのアイドル・プロジェクトで石川奈青、神姫楽ミサとKISSmeT PRINCESSを結成、CDデビューも果たした。自分の存在感が徐々に増していることも実感している。
今後の目標は、「SAKIさんやひかりさんがチャンピオンベルトを持っているいるように、ベルトを持つことです。ただのコマで終わらないためにも、意思表示していきたい。SNSの言葉もかなり見られてるので、発信とか表現も必要だと思ってます。意識している選手は、2018年デビューの同期の選手全員。共に切磋琢磨していると勝手に思ってるし、良い意味でライバルとして居る感覚が燃えます。憧れの選手は、山下りなさんと松本浩代さん、そしてSAKIさん。豪快な姿。強さが滲み出ていて、見たら強いとわかる。水波綾さん、まなせゆうなさんも憧れです。そういうオーラを纏える選手になりたい。ベルトを持った経験とか、試合中に滲む発言とか。今すぐには難しいかもしれないけど、最終的には、そうなって締めくくりたいという思いはあります。必要なのは、体の芯。プラス、怖がらないようになれる自分の体への信頼。とりあえずやってみようと思える体づくりを継続して自分の中での不安をゼロにしたいです。今のCOLOR’Sは4人でそれぞれの役割があるというか。それぞれが、単体でも輝くものがあって、集まってもいろんな色があって輝く。4人が互いに必要としてることもあるだろうし。それが、COLOR'Sの一員であることが、今の最大のモチベーションになっています」
プロフィール
1995年1月20日、長野県出身。
プロレス・デビュー:2018年5月13日
身長:162cm
得意技:セントーン、ワー!プレス
ディスコグラフィ:『Are you princess?』KISSmeT PRINCESS(2022年5月4日発売)
主な舞台出演作:コルバタ『恋夜行』(2022年)、AWG『カウント2.9』(2018年)、E-dess Project『王国』(2017年)、SANETTY Produce『都落ちコンダクターの一振』(2017年)、ホットポットクッキングPresents vol.2『憑依だよ!栗山ハルコさん』(2017年)、SS企画『追放選挙』(2017年)
怪我からの復帰戦は、未依、ひめかとのトリオ。
アクトレスガールズ旗揚げメンバーのまなせゆうなとのシングル戦は、大きなエポックとなった。
2022年のCOLOR'S旗揚げは、別の仕事で参戦できなかったが、第2弾から登場。
アイスリボンでは、石川奈青、神楽坂ミサと「KISSmeT PRINCESS」としてCDデビュー